瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(141)

・青木純二の経歴(10)「内地新聞人名簿」
 昨日の続きで、阿部氏・遠田氏が調査した段階では参照しづらかった資料の追加。
文圃文献類従 49『戦時末期敗戦直後 新聞人名事典 附・日本新聞年鑑1946』全二巻・2015年12月発行・金沢文圃閣・A5判上製本
 井川充雄 監修。
第一巻(定価20、000円・420頁)
 7~161頁、日本新聞會 編『報道戰士』昭和十七年七月二十八日印刷・昭和十七年八月 一 日發行・非賣品・日本新聞會
 163~322頁「内地新聞人名簿」
 6頁(頁付なし)「第一巻凡例」1条め後半に「「内地新聞人名簿[1944年4月末]」(『日本新聞会便覧』日本新聞会、1944年12月)を収録したものである。」とある。頁付は166頁が原本「- 1 -」で322頁が原本「-157-」。
第二巻(定価20、000円・329頁)外務省情報部 編纂『昭和二十一年版 新聞要覽 (日本の部)
 青木氏の名前は「内地新聞人名簿」の166~171頁(原本1~6頁)下段(3段組)10人め【】の部に見える。すなわち、167頁(原本の2頁)下段、19人が並ぶうちの最後、やや大きく「青 木 純 二」とあってその下に2行、

朝日(東京)整理部 福岡(明28) 小樽高商/中退 大六函日入社 大一二東朝入社。 


とある。短い記述であるが、従来知られていなかった情報に富んでいる。
 青木氏の学歴は、昨日見た昭和六年版『全國新聞通信網大觀』には「高商卒」とあったが、これは詐称(?)で10月24日付(138)に引いた大正十四年版以降の『日本新聞年鑑』には「高等商業學校三年まで」とあった。しかしいづれにしても学校名が分からなかったのだが、この「内地新聞人名簿」により「小樽高商中退」であることが判明した。官立小樽高等商業学校は現在の小樽商科大学で、明治44年(1911)4月に開校している。明治28年(1895)生の青木氏は大正2年(1913)入学であろうか。高等商業学校は3年制だが「三年まで」と云うのは最終学年まで進級したものの卒業出来なかった、と云うことであろう。青木氏と北海道との縁は小樽高商に発しているようである。そしてこの「内地新聞人名簿」により「大六函日入社」がその新聞との関わり始めであったらしいことが察せられる。大正13年版『日本新聞年鑑』の(新聞歴)の筆頭に載っている「函館日日」新聞である。『函館市史』デジタル版、通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影/第2章 20万都市への飛躍とその現実/第7節 都市の生活と新しい文化/7 マスメディアの隆盛と新聞人/「函館日日新聞」創刊(P952-P954)に拠ると函館日日新聞社は大正7年(1918)1月創立、4月5日創刊号を発刊している。大正6年(1917)創立準備段階から関わっていたのであろうか。『日本新聞年鑑』には「福岡毎夕」主筆、福岡「日日」、「新潟毎日」、「新佐渡主筆、と新聞社名が挙がるが在籍時期不明。はっきりしているのは大正8年(1919)11月「高田新聞」入社、そしてこの「内地新聞人名簿」により「大一二東朝入社」すなわち高田新聞から東京朝日新聞高田支局(高田通信部)に移ったのが大正12年(1923)と判明する。その後、昭和4年(1929)頃に東京朝日新聞横浜支局に移り、昭和19年(1944)4月には「内地新聞人名簿」にある通り本社の整理部に、恐らく横浜の自宅から通勤していたようである。(以下続稿)