瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

杉村顯『信州の口碑と傳説』(09)

・「南信地方」(4)上伊那郡
 昨日の続きで、青木純二『山の傳説 日本アルプスと共通する話を挙げ、典拠と認められそうなものを「←」、部分的に一致するものを「≒」で示した。
 317~356頁7行め「上伊那郡」9題、但し9番め、345頁2行め~356頁7行め「駒ヶ嶽」は3項に分かれており、合計で12話である。
上伊那郡【1】光前寺の不動尊と義犬塚(317~325頁1行め)
  ≒中央アルプス篇【3】義  犬  塚(西駒ヶ岳)220頁10行め~226頁2行め*1
上伊那郡【8】眞  菰  ヶ  池(343~345頁1行め)
  ≒南アルプス篇【6】眞 菰 ヶ 池(高鳥谷岳)247~252頁9行め
上伊那郡【9】駒ヶ嶽/一 天津速駒(345頁6行め~348頁)
  ←中央アルプス篇【1】天津速駒駒ヶ岳)215頁2行め~217頁
上伊那郡【9】駒ヶ嶽/二 野婦ヶ池(349~352頁)
  ←中央アルプス篇【2】濃ヶ池駒ヶ岳218~220頁9行め
上伊那郡【9】駒ヶ嶽/三 炭燒の娘と若侍の話(353~356頁7行め)
  ←中央アルプス篇【5】炭燒小屋の娘(西駒ヶ岳)227頁7行め~230頁9行め
 8月11日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(098)」に見たように『山の傳説』の「中央アルプス篇」は8話、そのうちここには4話、それから8月26日付(05)に見た8話め「手塚の里(丈念岳)」の合計5話を、杉村氏は採っている。
 当初、下伊那郡も纏めて取り上げるつもりだったが、付け足りで書き始めた雑談が長くなったので明日に回す。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 「大学入試センター試験」の後継の「大学入学共通テスト」の見本を見て、文学部の教員や作家などが声を上げ始めているが、正直、何を今更、ざまぁ見ろ、と云う感想しか持ち得ない。昨年、家人が請け負っている教材執筆の仕事を手伝って、「大学入学共通テスト」の模擬問題を考えたりしたが、それはもう、以前から感じていた古典はほぼ《オワコン》で、漢文は《完全終了》であることの確認でしかなかった。今後、古典文法なんて特殊知識に属するだろう(歎息)。そして現代文も「大学入学共通テスト」の見本と「新学習指導要領」を見る限り、現状(が良いか悪いかは別として)を維持することは、もう不可能だろう。

 大学の連中はこれまで呑気にしてきた癖に(大学内での組織防衛などで忙しかったのかも知れぬが、根本の対策がお留守だった時点で私にはそうとしか見えないのである)、自分たちの尻に火が付くと忽ち騒ぎ出す。しかし利己的に見えてしまうのである。私見2011年3月6日付「森鴎外『舞姫』の文庫本(1)」以来、度々述べて来た。2015年8月9日付「吉田秋生『櫻の園』(1)」に「さすがに現代文はなくならないと思っているので」と書いたが、現代文も今のままではいられなくなってしまう可能性が高くなって来た*2訳だが、私が漢文や古文について述べて来たことが現実になり、さらに現代文にも及んで来ただけのことで、別に驚きはない。しかし私はこれに反対する人たちに同調出来ない。いや、私も反対は反対なのである。しかし、20年来、古文漢文がないがしろにされている現状が続いて来たのに、学界の指導層はどれだけ有効な対策を立てて来ただろうか。そこを言わば見殺しにして置いて、今更何をか言わんや、である。現代文だって、明日は我が身だったのに。 こんな呑気なことを言っている場合ではなかったのだ。
 しかし、私は文学部など、上位の大学にあれば良いと思っているので、これ機会に大学文学部の半ばが壊滅してしまっても、惜しいとは思わない。
 ただ、残念(?)なのは、私がただ1回応募した大学の公募、出身大学の指導教授の後任に通らなかったことである(笑)。私はこれに応募する前に、既に3月1日付「森類『鴎外の子供たち』(2)」に述べたような心境になっていたから、仮に大学の専任教員になっていたら、学会活動なんかそっちのけで、推薦入試・AO入試撲滅、撲滅が無理でも最低限の学科試験をどの大学も課すべきで、課すことの出来ないような大学は(文学部に限らず)潰れてしまえ、と云う論陣を張った(!)ところだのに。まぁ僻説を述べる変り者扱いされて、結局どうにも出来なかっただろうけれども。
 私は予算制度に反対で、文学部みたいな儲けを生まない学部が、予算を分捕って来た者がエライと云う神経の予算制度に乗っ掛ったところがそもそもの間違いだったと思っている。古書の蒐集・撮影・保存などは図書館事業に附属させて文学部の予算からは切り離す。文学部は徹底して低予算で、高価な買物なぞしなくとも、今ここにある資料を徹底的に読み込むことで、読解・著述・翻訳・教育・編集等に有能な人材を生む組織として、存在感を主張するべきであった。今、東京なら東京に、集積されている資料を総点検するだけでも、材料は無尽蔵だろう。我々は既知の文献の価値も、十分な査定を下せていないではないか。それは今私が確認しつつある伝説集相互の影響関係が全く*3問題になっていなかったことから明らかである。図書館に収まってもそのまま埋もれて、価値に見合った扱いを受けていない(過大評価・過小評価・未評価)資料がごまんとあるではないか。当ブログはその、ささやかなる試みでもあるのである。もちろん、大学の専任講師などになっていたら(まぁその後に想像される仕事ぶりからすると教授にはなれないだろうが)当ブログのようにはやっていないはずだけれども。
 そして、ふと思い出すのが、高校の、いや中学の国語便覧に載っていた、作文である。それが、ずっと私の胸に刺さっていて、時折疼くのである。――ある女子高生が、短大の国文科に進学して芥川龍之介を研究したいと思っていたのに、そんな遊ばせる余裕はない、との親の反対で、実務に直結した学科を選択せざるを得なくなった、と云う、やり切れない気持ちを訴えたものだった。
 こんなにも文学に憧れる、如何にも真面目そうな字の女子高生の存在に(当時は私の方が年下だけれども)驚きを覚え、そして心の底から同情し、現在どうしているのか、当時気になって堪らなくなったのである。そして、文学なぞ道楽で、何の役にも立たない、と云う観方が強固に続いていることにも、今からすると気付かされるのである。この考え方は、予算制度と同じである。文学は殆ど儲けを生まない。だからその観点で見られては、全く無駄でしかない。しかし、だからこそ、低予算でいろいろ出来る、国民の知的レベルを底上げする、そういうアピールをこそ、するべきであったと思うと、私はやり切れなくなって、ほんとにもう、この間、大学にいた連中よ、お前ら勝手に落し前を付けてくれ、と云う気分にさせられるのである*4。尤も、この動きが始まった当初責任ある立場だった人は、ここでも既に逃げ切った恰好なのだけれども。

*1:2021年12月4日追記】当初「←」としていたが「≒」に改めた。

*2:映画『櫻の園』の予告篇の最後に「どうしていつまでもこのままでいられないんだろう。風が、最後の花を散らせています」とのナレーションがあったことを思い出した。

*3:論文でこういうことを述べた人がいるかも知れないが、ネット上には存在しないようである。

*4:そもそもは大学を増やし過ぎたことが原因であった。それを無理に生き残らせようとするから入試がおかしくなったのである。それに文学部も加担して、自らの価値を下げ続けた挙句に、この体たらくである。むしろ、主犯は貴方たちではないのか。そのために高校国語も変質させられ、本当に迷惑だった。