瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子事典の会 編『八王子事典』(12)

・相原悦夫『春秋一会・私の人ごよみ』(3)
 昨日の続きで、続く「柴田隆行 多摩川の自然を守る会代表)」条を見て置こう。49頁2~9行めの上*1顔写真は、科学技術振興機構のデータベース型研究者総覧「researchmap」の「柴田 隆行/シバタ タカユキ (Takayuki Shibata)」項(更新日: 2021/10/25)に載る顔写真に、髪型・眼鏡・服装など良く似ているが、ネクタイをしていないワイシャツの襟の形から違う写真だと分かる。秀でた額と黒々とした髪が全く変わらない。これについてはこの写真の下の本文に、

 昨年、九月の中ごろ、八王子駅のプラットホームで柴田/さんを見かけたが二十年前、八王子事典の作業を一緒にし/ていた頃と同じスタイル、全く変わっていなかった。昭和/六十二年に八王子事典で初めて柴田さんと本格的な仕事を/することになるが、柴田さんは五十年代当時、八王子市郷/土資料館で働いており、手元にある資料によると、僅かに/「資料館だより」の原稿校正などの文書に柴田さんの名前/を見られるくらいだった。


 昨年は平成20年(2008)、柴田氏は昭和24年(1949)生だから満59歳になる年である。昭和62年(1987)には満38歳になっている。「researchmap」に載せている写真はいつのものだか分からないが、20年も変わらないのであればいよいよ何時のものだか分からない。それはともかく、柴田氏は昭和47年(1972)神奈川大学国語学部英語英文学卒業で、昭和52年(1977)東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学で、凡そ郷土資料館とは縁がなさそうなのだが、昭和52年から東洋大学文学部非常勤講師を務める傍ら、八王子市郷土資料館でも働いていたようだ。昭和60年(1985)から神奈川大学国語学部(1997年まで)と國學院大学文学部(2002年まで)で非常勤講師を務めるようになっているから、八王子市郷土資料館で働いていたのは、相原氏の云うように「五十年代」のようだ。本書の①初版が刊行された平成3年(1991)には東洋大学文学部助教授、平成11年(1999)には教授になり、その後社会学部に移って定年退職まで務めたようだ。
 但し『八王子事典』とは八王子市郷土資料館での繋がりからと云う訳ではないらしい。49頁10行め~50頁2行め、

 柴田さんは馬場さんと同様、かたくら書店から早い時期の一九八〇年一〇月*2に「片倉の/自然」の著書を出版されている。そのようなことから柴田さんと馬場さんを主要メンバー/として「八王子事典の会」が結成され、その後、何回もの打ち合わせを重ねていく。柴田/さんは口数は少ないが、核心を突いた見解を示す点では存在感があった。執筆担当を分野/別にした折、柴田さんは人物を担当することとなり、柴田さんは「八王子市史」、上・下/【49】巻に出てくる人物を片っ端から拾い上げたということで、私を始め、馬場さんや佐藤広さ/んを〝あっ〟といわせたことが、今でも印象に残っている。


 「佐藤広」条と矛盾はしないが少し違った印象を受ける。確かにかたくら書店新書1『八王子片倉台の地誌』は馬場喜信著、かたくら書店新書2『片倉の自然』は柴田隆行著で、両氏は書店業の傍ら出版業にも乗り出したかたくら書店・田原勘意の極初期からの盟友であった訳である。
 この記述から柴田氏の担当が人物であったらしいことが分かる。佐藤氏の担当は民俗であろう。相原氏の担当も大体見当は付くが、それは馬場氏の条を見てから述べることにしよう。(以下続稿)

*1:2023年1月19日追記】「には」と誤っていたのを「の」に訂正。

*2:2月25日付(10)に見た「凡例」の5条め(前付8頁め12~13行め)「一 本文中の年表記については、随想の形を基調としていることから、和暦のみとし、( )/ の西暦の表記は避けることにした。」との原則と矛盾するようである。