・岩崎京子の赤マント(13)
4月15日付(235)からの続きで、今回は【C】岩崎氏たち女子の対応について確認して置きます。
①64頁3行め~66頁7行め
わたしたちは赤マントがこわくて、とても勉強どころではありませ/ん。先生はそわそわしているわたしたちに気づいているのに、授業を/つづけるのでした。*1
女の子だけで自衛するしかありません。わたしたちは、かたまってか/えることにしました。*2
わたしたちの学校は新興住宅地にあり、地元の農家の子が三分の一、/あとはてんてんと移住してきたつとめ人の子、そして駅まえの商店街/の子でした。*3【64】
だからちかくの子からひとりずつおくり、つとめ人の子をおくり、最/後ににぎやかな駅まえのお店の子という地図をつくって、ひとかたまり/でかえりました。*4
とちゅう大ケヤキの下の、昼でもくらいところがありますが、そこに/男の子がかくれていて、女の子をぎゃあぎゃあいわせました。*5
赤マントはこわかったのですが、こういうスリルも楽しかったのもほ/んとうです。*6
65頁のイラストは枠に「Gya・・・ Gya・・・ 」とあって、欅の高い枝に潜んで葉の中に隠れていた男子が、下にいる3人の女子に向かって両腕を突き出して脅かす様子。欅の天辺に白い人魂型に目と口と蝶ネクタイを付けた怪談レストランのメインナビゲーター「お化けギャルソン」がいて「\おいおいわるさするなよ !!/」と声を掛けています。
②52頁9~12行め
‥‥。だから、あたしたちで自衛しなきゃ/なんない。どういうことかというと、クラスの六年生の女の子だけでその家の地図を作って、学/校の近い子からおとして、一番最後が商店街の賑やかな家の子というので、そういう自衛手段を/したんです。
③9頁7~12行め、10頁2~15行め
‥‥。先き回りした男の子がかくれていて、女の子たちをおどかすんです。
そこで私たち、先生に訴えました。
「補習を、少し早くきり上げてもらえませんでしょうか」
「どうしてだ?」
私たちは、るると説明しましたが、ちっともわかってもらえません。
「男の子って、六年生の男の子だろう? おまえたちの方が強い」
‥‥‥‥
もうひとつありました。
校門を出ると、すぐ近くにこの辺の地主さんの屋敷がありました。ケヤキやムク、エノキなど大木と/なって、屋敷は守られています。
私たちはまっ暗な、何かいそうな道をかけぬけなくてはなりません。
ある日、ケヤキの一番下の枝、それでも私たちは見上げるくらい高い所ですが、なわが下がっていま/した。
男の子たちは、「くびつりケヤキ」という怪談を作って、私たちをおどかすのでした。
考えて見れば、そのなわをほうって、枝にひっかけたのも、六年の男の子たちだったかもしれませ/ん。
うわさだけの「赤マント」より、こっちは一段とこわかったです。
私たちは無援です。自衛するしかありません。
まず、女の子の家の地図を作りました。
そして学校に近い子から、ひとりずつ送って行って、最後は駅の近くの、ちょっと明るい街灯の商店/街の子というわけです。
当時の様子は、谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「首都圏」にて、地形図「1927~1939年」と航空「写真1936」を参照することが出来ます。地形図「1944~1954年」及び航空「写真1945-50」も参考になります。検索窓に「経堂駅」と入れれば①と③に見える「駅」が、そして「桜丘小学校」と入れれば「学校」の周辺が表示されます。「きやうだう」駅の南にある「卍」が、4月10日付(230)及び4月12日付(232)に引用したように当時、岩崎氏の遊び場だったことが回想されている福昌寺です。
さて、当時の第二桜尋常小学校の校地は、現在の桜丘小学校(東京都世田谷区桜丘1丁目19番17号)の校庭と、デイホーム桜丘(東京都世田谷区桜丘1丁目19番22号)の建っている辺りで、現在校舎のある辺りは当時は道を隔てた農地でした。そして、当時の校舎は校地の西側に建っており、昭和11年(1936)の航空写真で確認出来ますが、分教場から独立した小学校に昇格した際に建てられたものでしょうか。
③の「地主さんの屋敷」はこれに隣接する、現在の世田谷区桜丘2丁目6番の東南側の大部分を占める邸宅でしょうか。昭和11年及び昭和20年代の航空写真、そして現状を Googleストリートビューで見ても、一番の候補になりそうに思われます。
①はこれを「とちゅうの大ケヤキ」とぼかしています。当時の世田谷区は「新興住宅地」で、烏山川の南側の台地にある第二桜尋常小学校から、当時まだ田圃が広がっていた烏山川の低地に下り、それから経堂駅周辺の、烏山川と北沢川の間の台地に登る。烏山川の北側の台地は昭和11年(1936)の航空写真でも粗方、宅地になっており、南側の台地にも宅地開発が進んでいます。しかし南側の台地にはまだ畑や雑木林も多く、低地が現在のように宅地になっていませんから、まだ「地元の農家の子が三分の一」を占めていたのでしょう。帰り方にもよりますが、「くびつりケヤキ」をやり過ごしても、田圃や畑の間を抜けたり、雑木林の脇を通ったり、住宅地でも街灯がある訳でもなく「まっくら」な上に、男子が「先き回りし」て「おどかす」ようでは、確かに「自衛」せざるを得なかったでしょう。(以下続稿)