・岩崎京子の赤マント(7)
石井正己 編『児童文学と昔話』に載る岩崎氏の講演「子どもたちへのプレゼント」の、続きを見て行きましょう。30頁7~14行め、
もう一つ、私、お地蔵様に幼友達がいるんです。世田谷区の経堂*1という所で過ごしましたけれど、駅/の裏に福昌寺*2というお寺があるんですよね。そこの境内が子どもの遊び場ということになってんです/けど、そこに行くと誰か遊んでて、「入れて」って言うと、すぐ入れてもらえる場所なんです。それで/私たちが遊んでるのを、六体のお地蔵様がにこにこ見ているんですよね。私たちの方も簡単になつい/ちゃって、お地蔵さんも遊びに入ってもらうんです。ゴム跳びの縄を首に引っ掛けて(笑い)、お持ちを/してもらうわけですけど、忘れられない表情を覚えてますよね、私の友達のブリキ屋の何とかちゃん、/下駄屋の何とかちゃん、お役所に行ってるお家の泰子さん、おじぞうさま*3も幼友達のひとり、そのお地/蔵様のことだったら書きたいなと思って。
こちらは4月10日付(230)に見た、4年前(講演からだと3年前)の『昔話を語る女性たち』所収「『かさこじぞう』の誕生」よりやや簡略になっています。
その「『かさこじぞう』の誕生」では「学齢直前」に転居したと云う経堂での生活振りについて、別に、より具体的な回想を述べておりました。130頁4行め~132頁「三 そして私は――」の節に、131頁2~11行め、
じつは父がある日突然会社を止めました。
「自分で会社を作る」
といったと思います。その辺の事情は小学一年生の私にはわかりません。もしかすると止めさせ/られたのかも。
昭和のはじめの不景気の頃でした。資本のない父に会社を設立できるとは思えません。
毎朝父は背広を着て出かけ、夕方帰ってくるという、それまでの生活は変らないので、子ども/たちは何も気づきません。
でもある晩、両親がひそひそ話している声を長女の私は聞いてしまいました。「何かある」。私/は眠れなくなりました。
つぎの夜だったと思いますが、私はトイレにいこうと起きました。母は‥‥
と、小学1年生の頃のことを回想するのですが、2箇所ある「止め」は「辞め」とするべきで、これも編集が校正するべきでしょう。それはともかく、その時期ですが、132頁4~13行め、
暮れ、父がにこにこして、母に、
「金策に行って来る」
といいました。私たちには、
「帰りにみかん買ってくるね。お正月の赤い鼻緒の下駄を買ってくる」
といいました。金策って何の事かわかりませんが、見当はつきます。多分駄目だろうなという事/も。それでもにこにこして、みかんや赤い鼻緒の下駄を買ってくるといってたから当てはあるん/だろうと思いました。
東京の歳末って、昼間は陽ざしいっぱいの小春日和ですが、陽が落ちると、とたんにさっと冷/えて来ます。木枯らしなど吹いてくるのです。
父は帰って来ません。‥‥
とあって、年末であることが分かります。
これは、昭和5年(1930)1月11日の金解禁に始まって昭和6年(1931)12月の金輸出禁止に掛けての昭和恐慌の頃のことのように思われます。しかし、昭和4年(1929)9月6日公開の小津安二郎監督映画『大学は出たけれど』からも窺えるように、既に長期の不況の中にあったのでした。

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満7歳にしては妙に具体的な回想であるところからしても、この回想はどうも昭和5年の年末、満8歳のときのことだったのではないか、と、そんな気がして来るのです。(以下続稿)
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荻窪のささま書店が5日に閉店していたことを知った。800円(!)で棚にあった美本の澁井清『れんぼゑづくし 初期板畫』を買い損ねたことを今も後悔している*4。
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