・岩崎京子の赤マント(11)
昨日の続きで、今回は【B】赤マント流言の内容について確認して見ましょう。
①59頁3行め~63頁*1
最初に赤マントの話を教室にもちこんできたのは、ゆみちゃんでし/た。*2
「夕方になると赤マントがでて、女の子をねらうんだって」*3
声をひそめて、ひみつっぽくいうので、わたしはぞっとしたものの、/興味しんしんでした。*4【59】
「首すじにかみついて、血をすうのよ」*5
「えっ、ドラキュラみたい」
わたしは少女雑誌で、ドラキュラのことをよんだおぼえがありまし/た。*6
「赤マントといっても、うらが赤いから気がつかないんだって」
ゆみちゃんは表は黒いサテン地で、うらが赤だといいました。それ/じゃ、よけいドラキュラじゃありませんか。*7
「ゆみちゃん、赤マントにあったの?」
「あうわけないでしょ。あってたらわたし、いまごろ血すわれて生きて/いられないじゃない」*8【60】
赤マントのうわさは、わたしたち/のクラスだけではありません。学校/じゅうにひろがっていました。*9
おまけにそのうわさは、日ごとに/ふくれあがってきました。
「その人ね、病気なんだって。女の/子の生き肝が効くんだって」*10
「えっ、血をすうんじゃないの?」*11
「血もすうわよ」*12
という友だちがいるかとおもうと、*13【61】
「あーら、天然痘の患者だってよ」*14
という人もいました。
天然痘というのは伝染病で、わたしたちはその予防に、かならず種/痘をさせられていたので、かかった人はいなくても、こわい病気だとい/うことはしっていました。*15
「天然痘って赤い色をきらうんだって。だから赤マント着てるのよ」*16
こういう話をする人もいました。*17
「だいぶ前の話よ。明治のころ。新聞にもでてたんだって」*18
福岡のある町に、まずしい一家がすんでいました。そのころ子ども*19【62】たちのあいだで、はやっていた人気の赤いマント(赤いラシャで、う/さぎの毛でできているえりがついている)を、その子だけは買っても/らえませんでした。クラスの友だちはみせびらかしていじめました。*20
ある日、学校のトイレ(そのころ御不浄といっていました)に入っ/ていると、いじめっ子にとじこめられ、*21
「赤いマントはいーらんね」
とはやしたてられました。くやしくてかなしくて、その子は自殺した/そうです。洋服は血だらけで、赤いマントを着ていたようにみえたそ/うです。*22
【63】
62頁9行め~63頁9行めは前後1行分ずつ空けて1字下げです。61頁下のイラストは「Dracula」吊り目で牙を剥き、腕を広げて夜空を飛ぶ体で、蝙蝠3匹を従えております。
内容の詳細については②と③を見た上で述べることとしましょう。
②52頁5~8行め、
‥‥。私たちは勉強したくないというよりも、赤マントが怖い/んです。赤マントが出てきて血を吸うと言うので,ドラキュラみたいなのです。私たちも怖くて/怖くて、先生に、「今日、あの勉強止めてください」「なぜなの?」「赤マントが……」「またそん/な流言飛語にだまされて」って、余計時間を長くしたりしてね。
親に言っても馬鹿にしちゃって、全然相手にしてくれない。‥‥
③9頁13行め~10頁1行め、
「あのう……『赤マント』も出るんです」
「なんだ?『赤マント』って」
「赤いマントをひるがえして、あらわれるんです。口が耳までさけてて、女の子をつかまえると、首/すじにがぶっとかみついて、血ぃ吸うんです」
「なに、ばかなことをいってる」
いくら説明して、笑われておしまい。【9】
そこで、親にいいました。こっちもちゃんと聞いてもらえません。
会話の相手は②と同じく補習の先生。②にはない前段【C】があります。
さて、①②③全てに共通するのは「血を吸う」と云うことで、①②ではドラキュラが持ち出されています。アメリカ映画『魔人ドラキュラ』は岩崎氏が小学生(恐らく2年生)の昭和6年(1931)10月8日に公開されています。
そして、既に注意したように、①には②③には見られない、色々な説が紹介されています。
これが、岩崎氏の小学6年生のときに聞いたものに限られていれば貴重な資料となったのですが、残念ながら、そうではない情報も盛り込まれているようです。
赤マントは裏地が赤いのだ、と云う説は、昭和14年(1939)の赤マント流言が社会問題化した当時のものとしては、2018年9月3日付(161)に見た「経済雑誌ダイヤモンド」昭和14年3月1日号掲載の近藤操「赤マント事件の示唆」、2016年8月1日付(151)に見た「サンデー毎日」昭和14年3月12日号掲載の阿部真之助「赤裏のマント」、2013年11月20日付(030)に見た「中央公論」昭和14年4月号掲載の大宅壮一「「赤マント」社會學 活字ヂャーナリズムへの抗議」、2014年2月8日付(108)に見た昭和14年7月1日付「大阪毎日新聞」に見えていました。そして回想では2019年7月27日付(206)に見た吉行淳之介『贋食物誌』、そして小説ですが、2013年10月26日付(005)に見た北杜夫『楡家の人びと』と、やや遅れて昭和16年(1941)のこととした、2013年12月27日付(67)に見た中島公子『My Lost Childhood』所収「坂と赤マント」を紹介しております。
残りも続けて済ませてしまいたいところでしたが、長くなりましたので続きは明日、取り上げることとします。(以下続稿)
*1:【4月18日追記】ルビを註記し忘れていたのを補った。また誤入力を訂正した。
*2:ルビ「さいしょ・はなし・きょうしつ/」。
*3:ルビ「ゆうがた」。
*4:ルビ「こえ/きょうみ」。
*5:ルビ「くび・ち」。
*6:ルビ「しょうじょざっ し /」。
*7:ルビ「おもて・くろ・じ/」。
*8:ルビ「ち/」。
*9:ルビ「/がっこう/」。
*10:ルビ「びょうき/い・ぎも・き」。
*11:ルビ「ち」。
*12:ルビ「ち」。
*13:ルビ「とも」。
*14:ルビ「てんねんとう・かんじゃ」。
*15:ルビ「てんねんとう・でんせんびょう・ よ ぼう・しゅ/とう・びょうき/」。
*16:ルビ「てんねんとう・いろ・き」。
*17:ルビ「はなし」。
*18:ルビ「はなし・めい じ ・しんぶん」。
*19:ルビ「ふくおか・いっ か 」。
*20:ルビ「にん き /け・か/とも」。
*21:ルビ「がっこう・ご ふじょう/」。
*22:ルビ「 じ さつ/ようふく・ち・き/」。【4月19日追記】「明治のころ」の「福岡」の「まずしい一家」の「子」が「洋服」を着ていたとは妙です。4月17日付(237)に引いた典拠と思しきチェーンメール(但し「新聞にもでてた」とはなっておりません)には、服装の指定はありません。