瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(370)

 もう1つ、昭和5年(1930)生れの人の回想を挙げて置こう。
 実はこちらの方が、松尾羊一『テレビ遊歩道』よりも先に、3年半前には気付いていたのだけれども、内容をどの程度紹介するか、迷っているうち、図書館で見掛ける度に借りて来てはいたのだが、記事にしないまま過ごしてしまった。
加藤廣『昭和からの伝言』2016年8月20日発行・定価1600円・新潮社・285頁・四六判並製本

 加藤廣(1930.6.27~2018.4.7)は『信長の棺』が話題になって、見なかったけれどもTVドラマにもなったから、何となく知っていた。ただ、本能寺の変の新説みたいなのは大河ドラマその他で見ているうちに次第に困惑を覚えるようになって、変わった説を持ち出されてもこれ以上は勘弁と云う気分にさせられて、それでどうしても読もうと云う気になれないのである。
 しかし、流石に作家デビュー前からビジネス書の執筆をしていて、本書は非常に読み易く、説得力もある。
 265頁の裏、奥付の前の頁(頁付なし)に「初出掲載誌・「新潮45」二〇一五年七月号~二〇一六年五月号」とある。本文は11章に分かれているから、1章が連載1回分と云うことになろう。満85歳になるしばらく前から準備して、満85歳になる頃から連載開始、そして死去の2年前まで11ヶ月の連載であった。
 加藤氏の年齢からして、赤マント流言には小学2年生の3学期に接しているはずである。よってその記述があるのは7~31頁「第1章 外山ケ原ノスタルジア」である。この章は以下の5節から成る。
・7頁2行め~「「昭和」が誤解されている
・8頁15行め~「着るもの食べるもの
・14頁8行め~「糞尿の香りの町・高田馬場
・21頁7行め~「モダンガールを母に持って
・27頁3行め~31頁10行め「「胸のつかえが下りた」対米開戦
 幼少期の加藤氏は、7頁5行め「明治生まれの母(明治三十年)と祖母(明治二年)のもとで明治風の家庭教育を受け、‥‥」母の名は21頁8行め「浪江」で、祖母の名は22頁1行め「けい」、19頁1行め「三つ違いの二人兄弟」の、18頁19行め「兄・吉徳は、戦時中の勤労動員の無理がたたって、戦後まもかく死ん」でいる。36頁12行め「父・虎夫」は、23頁6行め「宮城県出身の慈恵医大での医師であ」ったが、9~10行め「‥‥、その後まもなく胸を病んで療養生活にはいり、結局、三十八歳の若さで、あっけ/なく病死する。‥‥」とあって、当時の加藤家は祖母(1869生)母(1897生)兄(1927生)と本人(1930生)という家族構成であった。
 21頁9~10行め「母方の祖父」は「陸軍近衛/師団の専属写真家」で「伊豆」の出身、13行め「母は、その一人娘」なので父は養子である。母は、14行め「幼少から東京の麴町の豪邸に住み」22頁7行め「仏英和女学院(現在の白百合)を出て日本女子大英文科に進学、中退して結婚し」ている。8行め「女学院時代は、家から紫袴で人力車にのり、学校に通った」と云うのだが10行め「今の東京駅の八重洲口一帯」が「その人力車の通路だった」とは妙である。当時、佛英和高等女學校は東京市神田区表猿楽町、現在の東京都千代田区西神田1丁目3番・4番の辺りにあったので、麴町から通学するのであれば九段坂を下れば良いのでに八重洲口一帯を通る必要はない。
 加藤氏は新潮社のPR誌「波」2016年9月号掲載の「『昭和からの伝言』刊行記念インタビュー郷愁(ノスタルジー)のみでは語れない実感的昭和史」では、

――ご母堂が作中にしばしば登場されますね。
加藤 私の母は東洋英和の出で、いわゆるモダンガール。家に、社会主義者やインド独立の闘志なんかをよく匿っていたものです。母の旧友たちが集まって茶話会がしばしば開かれ、私も分からないながら耳学問をしたものでした。満州事変勃発についての内緒話なんかは、今でも耳に残っています。

と語っており、麻布区鳥居坂町8番地(現・港区六本木5丁目14番40号)の東洋英和女学校であれば、或いは加藤家が麴町区の北部にあった場合、起伏を嫌って、距離的には短くなるはずの赤坂経由ではなく、九段坂を下って、内堀沿いに「八重洲口一帯」を通って日比谷に出て、と云った通い方をしたのかも知れない。しかしどうも、この辺り、加藤氏も22頁7行めに「多くは「また聞き」の話だから」と断っているように「曖昧なところが一杯あるの」だが、仏英和か東洋英和だかは(編集部で)確定させて欲しかったと思うのである。
 と、赤マント流言に関係なさそうな母親の学歴に注意したのは、加藤氏の赤マント流言体験に、この「茶話会」が絡んで来るからである。
 その赤マント流言に話を及ぼす前に、もう少々、当時の加藤氏の状況を確認して置こう。
 当時、加藤氏は、3節めの見出しにあるように高田馬場に住んでいた。当時は東京市淀橋区の諏訪町もしくは戸塚町二丁目であったと思われる。
 加藤氏の祖父は22頁18行め「大正モガ(モダンガール)そのもの」の、23頁2行め「娘の「進歩思想」を危惧した」らしく、22頁19行め「無理矢理、娘を」女子大を「中退させてでも結婚」させてしまう。23頁6~8行め「祖/父は娘婿に、早稲田の鶴巻町に大きな病院を建ててやり、写真屋も陸軍の専属写真家も早々にやめ/てしまったという。」ところが先に引いたように病院は長続きせず、23頁12~13行め「麴町の豪邸や大病院を売ったお金などは、昭和金融恐慌の最初の犠牲として話題となった渡辺銀行に預金してあったことから被害は甚大」で、15行め「残ったお金」と、16~17行め「残された二児を抱え、母と祖母は、あえて人糞の香気ただよう高田馬場に身/を潜めたというわけである。」と云うのだが、14頁9行め「私の生まれた高田馬場(東京新宿区)」とあるから、加藤氏が生まれた時点で既に高田馬場に移っていたようにも読める。この辺り、どうも明確でない。いや、父が死んだのがいつなのかも、はっきりしない。32~58頁「第2章 都心で見届けた戦争のリアリティ」の1節め、32頁2行め~42頁9行め「母の自由主義教育」に、36頁12行め、父の「病気療養中」の言として、14~16行め「「私に万一のことがあっても、息子二人は決し/て医者にしないでくれ」/ と言っていたという」のだから、加藤氏が生まれたときにはまだ生きていたことは分かるのだけれども。そして、それより前らしい祖父の死になると9頁16行め「我が家では祖父も父も早世し」とあるくらいで、しかし娘が女子大に進むくらいまでは生きていたのだから「三十八歳」で死んだ父ほどの「早世」ではなかったろう。
 この祖父については、経歴から誰だか分らないかと思ったのだが、まだ探り当てていない。分れば色々と明確に出来ることであろう。(以下続稿)