瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(257)

井上雅彦「宵の外套」(12)
 赤マントに関連しそうなところはここまでであるが、序でに以後の展開を眺めて置こう。
 友人に大切な何かを汚されてしまったように感じた「私」は「深草」に赴き、自転車を引いた黒い外套の「老人」に逢う。
 続いて、四条大橋のたもとでも、円錐形の暗幕を張った「老人」に会う。ここでは、暗幕に向かって声を掛けた「私」に対する相手の反応を書いた次の1段落を抜くに止めよう。①481頁9行め②251頁下18~19行め③142頁下3~4行め

 老人が顔を出した。幕がめくれると、内側は真\紅だっ|た。


 これは「赤マント」のマントが、実は赤裏のマントであるとの説に、井上氏が依拠したのかどうか。
 さて、「私」がこの「老人」を初めて見掛けのは【B】と【C】の間、血天井の吉祥山正伝寺を訪ねたときであった。さらに【C】と【D】の間、「六道の辻」を訪ねたときに見掛けた「黒い暗幕を拡げた老人」も同一人物であったことに気付く。
 暗幕の内側はの中が映画史の博物館のような、シネマトグラフ以前の光学器械の珍品に満ちていることを知る。老人の口ぶりは京都の映画の創生期から映画に関わってきたもののようである。
 そして、老人に促されるまま木箱の覗き穴を覗くと、写真でしか見たことのない深草の祖父の洋館の前で遊ぶ女の子――幼い日の母が、長い外套の男に、長いナイフで襲われそうになっている場面が映し出される。ナイフとは別の手には大きな袋。あわやと云うところで、もうひとりの長い外套の男が、ナイフの男をつかまえて宙に抛り投げると、爆ぜて「数万匹の金魚のように、錦秋の紅葉のように、真夏の流星のように、凄艶に降り注ぐ吹雪のように、狂おしいほど爛漫な櫻吹雪のように」美しく「爆ぜつづけ」る。そこで、母から初めて聞いた黒い外套の男の話を聞いたときの感慨が「恐怖」ではなく「美」であったことを思い出す――。
 書いていないが、1人めの長い外套の男は、昭和7年に「京都に上陸」したドラキュラ、そして2人めが小野篁と云うことになろうか。ドラキュラと篁で韻を踏んでいる。いや、1人めはナイフに袋の人攫いだから吸血鬼ではなく、2人めがドラキュラと解した方が良さそうだ。いや、2人めはやはり、小野篁とするべきだろうか。そして老人は、明治30年(1897)に「西陣の稲畑勝太郎が、リュミエール兄弟からシネマトグラフの機械を輸入」した頃から映画に関わり続け、そして老境に達した昭和7年(1932)新京極で上映された「彼」の映画に魅了されるうち、「彼」に血を吸われて不死となったのであろう。そして「美」に陶酔するうちに「私」も血を吸われ、ラスト、意識のない状態で深夜に「友人」宅に転がり込んだ「私」は、いきなり友人を熱く抱擁しつつ首筋に牙を立てたらしい、ことを匂わせて終わる。

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 本作は、昭和12年(1937)から昭和15年(1940)の間の一時期、京都で老若男女を震え上がらせた「黒い外套」の「吸血鬼」の噂に、昭和7年(1932)に新京極で上映された映画『魔人ドラキュラ』、そしてこの世(京都)とあの世(冥界)を往来したと云う「小野篁」の幻想を掛け合わせて1篇の小説に仕立てたものである。
 そこで、私の見当であるが、――やはり「黒い外套の男」の噂について、傍証が欲しい。やはり1人の記憶だけでは、当ブログでも記憶違いについて、特にこの「赤いマント」の記事で繰り返し、例えば加太こうじ『紙芝居昭和史』の1年違いなど、指摘して来たように、安心出来ないのである。だから未だ確定的なことは云えない。飽くまでも見当として、述べて置こう。
 時期から見て、昭和14年(1939)2月に東京で発生し、6月から7月に掛けて大阪でも流行した赤マントの吸血鬼の variation と見て良いのではないか。井上氏の母の年齢が、8月8日付(250)に示した見当の通りであるとすれば、当時小学校4年生である。赤マントとしていないのは、記憶の脱落か、そもそも京都では赤マントとして広まらなかったのか、――やはり別の証言が欲しいのである。
 一応、赤マント流言の variation として、位置付けて置くこととする。(以下続稿)
追記】8月11日に、以前からの構想通りにここまでの記事を纏めて、翌日である今日8月12日、ふと『京都宵』を含むホラーアンソロジー異形コレクション』(1998~2011年)を検索して見ると、今日、井上氏の tweet によって年内に復活するという告知がなされていました。――「赤マント」の正確な歴史を踏まえた作品、にはならないでしょうが、まぁ随想と論考の間のようなものでも、載せられないだろうか、と思うのです。先月末に「現代ビジネス」に出た赤マントに関する与太記事の「一億の一億倍くらい」マシな、かつ、まだ依拠するに足りないとされるブログ記事にしかなっていないから、本に載れば今度こそ今後の赤マント論の基礎になる資料を、提供出来ると思います。(8月12日)