ざっと拾い読みしただけであるが、気になったところをメモして置く。
ところで標題であるが、「マンボウ響躁曲」と題すべきは夫人の斎藤喜美子(1937.4.11生*1)と阿川弘之と旅した初出「マンボウ出鱈目泰西旅日記」の方で、カメラマンの藤森秀郎と「文春のKさん」が同行した「マンボウ南太平洋をゆく」は〈躁〉でもない。殆どが初めて訪問したトンガの記述で、タヒチやフィジーの再訪では『南太平洋ひるね旅』から15年の変貌ぶりに、慨嘆しきりなのである。
まづ「マンボウ響躁曲」について。
単行本18頁(文庫版20頁)5~9行め、
私は女房を外国に連れていってやったことは、過去二度しかない。
初めは、今はもう就役していないラオス号で香港に行った。このときは、私もまだ若く、女房/が女のあさましさ丸出しで買物に熱中するのにも、それほど苦もなく尾*2いてゆくことができた。/私としても、香港ではいつも安い万年筆やライターなどを買いこんでいた時代だったからだ。と/ころが一日、知人の中国人の奥さんの案内でショッピングを始めたところ、‥‥
10月26日付「赤いマント(288)」に、『マンボウ最後の家族旅行』に見える「私が若かった頃、香港へ行く時に乗った客船に、‥‥」とあるのを、昭和40年(1965)に「京都府山岳連盟の西部カラコルム・ディラン峰登山隊に医師として参加」したときのことか、と見当を付けたのだけれども、どうも、香港には再々出掛ける機会があったらしい。
夫人の生年については、単行本33頁9~10行め(文庫版35頁8~9行め)、パリの印象派美術館(ジュ・ド・ポーム美術館)にて、
それなのに、女房の絵を見る速度のなんと鈍いことだったろう。彼女は丑年生れで何事につけ、/こちらが癇癪を日に三遍は起さねばならぬほどノロマなのである。*3
とあるところから昭和12年(1937)生であることが分かる。
次に「 マンボウ南太平洋をゆく」について。
単行本234頁4行め「成積」は、文庫版236頁3行めでは「成績」と修正されている。
10月31日付「赤いマント(293)に、畑中幸子とタヒチを一周したドライブについての記述を抜いて置いた。その直前も抜いて置こう。昭和51年(1976)4月11日7時半、フィジーから飛行機でタヒチに着いて空港ビルにて、単行本236頁9~11行め(文庫版238頁8~10行め)、
とりあえず外へ出ようとしたとき、やはり文春から連絡してもらった観光局に勤める志谷さん/に迎えられる。ちょっとタヒチ美人に似ている彼女は、日本人客の応対で日曜日にも休めないと/こぼしながら、親切にいろいろ教えてくれた。
と、その教えてくれた情報の1つはゴーギャンの息子のポールの消息、そしてもう1つが、単行本236頁14~17行め(文庫版238頁13~16行め)、
更に私にとってショックだったのは、パペーテの町は近代的建築が続々建ち、かつて泊ったオ/ンボロなグランド・ホテルもとうに壊されてしまったと聞いたことだ。日本人観光客は昨年が三/千四百人、今年は六千人を見こんでいるという。話を聞いただけで、十五年前のかりそめでない/思い出が打ち壊されてゆくようだった。
との感慨を抱くのだが、10月26日付「赤いマント(288)」に触れた、新潮文庫2118『南太平洋ひるね旅』の Amazon レビュー、2014年6月19日投稿「今は消え去った風景」の「追記」に拠れば、グランド・ホテルの建物は現存しているらしい。
なお、畑中氏とのドライブについては「マンボウ響躁曲」にも、単行本24頁(文庫版9頁)18~19行め、
「なに、おれは二度、右側運転したことがある。もっとも最初はずいぶん昔のタヒチで、そのこ/ろはパペーテの町を出外れると行きかう車も滅多になかったが。二度目は‥‥
と、夫人との会話に出て来ている。(以下続稿)