・北杜夫の赤マント(8)
昨日の続きで『南太平洋ひるね旅』の確認。
しかし夕方には体調不良も落ち着いて、ホテルに来た紺野老人に会って学者2人に引き合わされます。その場面、文庫版66頁6行め~67頁12行め、全集169頁下段20行め~170頁下段11行め、【11月19日追記】11月14日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(03)」に挙げた①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。75頁14行め~77頁7行め。なお、章立てと頁については11月17日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(06)」を参照。
やがて紺野さんがきた。七十三歳とは見えず、今も郵便|局の嘱託で、車をとばして田舎ま\わり/をする元気さである。|すぐに日本人の人類学者のところへ連れてゆくというから、|【169】私は\「いずれ/お会いしますから」と言った。【75】
「いや、 Tさんという先生は明日帰られることになってま|す。Hさんという女の人はまだこ\こに/残るそうじゃが。ち|ょうどよかった」
「女ですって?」
「そうです。まだ若い人ですよ」
若いとはいっても、明治時代にこちらの島に渡ってきて、|現地人の妻をめとり、何十年も\タヒ/チに暮してきた紺野老|人にとっては若いのかもしれないが、こんな所にまではる|ばるや\ってくる/女の人類学者というからには、どうせ鬼を|もひしぐようなオバちゃんであろうと私\は想像した。
紺野さんの車で、二人が下宿しているという中国人の家|へ行った。大阪市立大学の助教授\であ/るT氏が出てきた。|私は学者ときくと二の足を踏むほうだが、まだ若い、きさ|くな、べ\つだんか/【66】しこまらなくてもよい人のように見えた。
「あなたは、ひょっとしたら、キタさんじゃありませんか?」
と、彼はいきなり言った。
ほんの数日まえ、耕洋丸という日本の練習船がタヒチに|着いたそうである。その船はもう\出港/したが、その乗組員|の人から、こんなふうなあやしげな人間がタヒチにやって|くるらし\いという/ことを聞いたそうである。私はおそれい|【170上】って、ぺこぺこお辞儀をした。【76】
ついで、H嬢という女性人類学者が顔を見せたとき、私|はもう一度びっくりした。ジンル\イガ/クシャなどというか|ら私は怖*1れをなしていたのだが、一見ごく平凡な小娘にす|ぎなかっ\た。私は/女性に対して腕力の点でも自信がなく、|そのため筆の上ではいろいろと女性の悪口\をかいて評判/を|とみに下落させたものだが、H嬢なら私だってたやすく投|げとばすことが可\能であろう。そん/なちっちゃい女性であ|った。彼女はまだ東大の大学院の学生なのだそうで\ある。
私はこの二人の方から、いろいろな話をきかしてもらっ|た。‥‥
北氏の知り合いの「T氏」と云うと、『南太平洋ひるね旅』の前年、昭和36年(1961)に『まぐろ大使航海記』を雪華社から出している高橋利治(1922生)と云う人がいます。この本は国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信限定)で目次を見るに、北杜夫「序文」があって、「ユートピアの島サモア」と云う章もあります。高橋氏はその後、農林統計協会 編「農林水産省広報」14巻12号(昭和58年12月)50~53頁に「「どくとるマンボウ」と「まぐろ大使」(海の最前線)」という文章も発表しています。しかし人類学者ではなさそうで「大阪市立大学」と組み合わせて検索してもヒットしません。
「H嬢」は『マンボウ響躁曲』所収「マンボウ南太平洋をゆく」を見るに、210頁5~7行め*2、島民の盗癖について、
これは南太平洋の多くの島の習慣といってよく、沢山持っている者から貰うのは自然で当然で、/ありふれたことだ。女性人類学者の畑中幸子さん(むかし私は彼女とタヒチで会った)によって|も、/食事時の家のまえを通りかかると「食べてゆけ」と言われる。その逆も真である。
とあって、有吉佐和子(1931.1.20~1984.8.30)をニューギニアに連れて行ったことで知られる(?)文化人類学者の畑中幸子(1930生)であることが分かります。北氏は「小娘」呼ばわりしていますが北氏の3歳年下、31歳のはずです。
「マンボウ南太平洋をゆく」にはもう1箇所、236頁18行め~237頁2行め*3、
空港でレンタ・カーを借り、ひとまずトラヴェロッジ・ホテルへ行き、それからすぐタヒチ島/の周辺を一周する道を撮影の下見にドライブ*4することにした。【236】
かつて私は人類学者畑中さんを乗せて、右まわりで島を一周した。このたびはゴーギャン博物/館が一つの目的だったから左まわりで出かける。
と見えています。
本書ではこのドライブのことは文庫版94頁10行め~103頁12行め、全集183頁上段18行め~188頁上段に見えていおり、――「警察」で「仮免許証」を「H嬢」の「通訳」で入手し、そして文庫版95頁7~12行め、全集183頁下段17行め~184頁下段(184頁上段は「タヒチ島・モーレア島」の絵地図)、【11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。108頁15行め~109頁7行め。
一日小型車を借り、H嬢を乗せてタヒチ島を一周した。|タヒチはひょうたん型の島で、ひ\ょう/たんの先の部分には|まだ道路が完成していない。下の丸い部分の一周はおよそ|百三十キ\【108】ロほどで、/ゆっくり走って一日の見物にちょうど|いい。け\れどもH嬢もまだパペーテ以外を知らず、果して/|先の道が\どうなっているかわからぬので、私はいささか急|【183】ぎすぎた。*5\パペーテの近くでは車の数/も相当に多く、私は|「右、右、\右側」と念仏をとなえながら運転しなければな|らなかった\が、し/ばらく行けばすれちがう車も滅多にない。|道は最後\までよかった。
と概要を記し、以下は道中の見聞にタヒチの歴史やマダム・キニーやH嬢の語った挿話を織り交ぜて、文庫版102頁15~16行め、全集187頁下段20行め~188頁上段1行め、【11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。116頁15行め~117頁1行め。
さて、余談ばかりしているうちに、私たちの車はもう島|を一周して、パペーテの町へ戻っ\てき/てしまった。まだ日|は高い。それでピエル・ロチの銅像のある山手まで行って|【187】みること\【116】にした。/‥‥
と、恐らく実際以上に「余談ばかり」で「一周」ドライブを終えています。
これで終えるべきなのですけれども、晩年のインタビューで北氏が、この畑中幸子とのタヒチ島一周ドライブを回想しているのですが、本書の記述とは齟齬があるのです。そこで回り道ついでに次回、これについても確認して置きましょう。(以下続稿)