北氏は昭和51年(1976)4月14日の真夜中にタヒチから帰国の途に就いている。その最終日にも、やはり「幻滅」を味わっているのである。
単行本243頁8~15行め(文庫版245頁7~14行め)、
翌日は、藤森さんたちはホテル・タハラのフロントに勤めている鳥飼さんという青年を案内に/撮影に行き、私はごろごろして、ただ一つ、むかしの私の旅行記『南太平洋ひるね旅』に出てく/るフランス料理屋が「ビタテ・レストラン」として改築されているのではないかという志谷さ/んの予想に従って、そこへ行ってみることにした。
なぜなら、タヒチに着いてまだ西も東もわからず、おまけにレストランのメニューがフランス/語でチンプンカンプンで参っていたときに、とある中国人経営の店で「カリー」という字を発見/し、頼んだら日本風に汁のたっぷりした御飯つきの小エビのカレーだったので感激した思い出が/あったからである。
本書には(単行本のカバー写真以外に)全く図版がないが、「マンボウ南太平洋をゆく」の初出誌「文藝春秋デラックス」は父が10冊くらい書棚に並べていたから私も子供の頃から馴染みがあるのだけれども*1、大判で図版が多い雑誌であった。すなわち、初出誌には藤森氏が撮影した写真が、多数掲載されていたはずである。
- 作者:藤森 秀郎
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さて、この「御飯つきの小エビのカレー」は、11月1日付「赤いマント(294)」に触れたように『南太平洋ひるね旅』①ポケット・ライブラリ版(=②新装版)93頁2~16行め③文庫版81頁1行め~82頁14行め④全集177頁上段16行め~下段16行めに見えている「最初の日にはいったレストラン」でのこと、但し2度めに注文したときには御飯抜きで出て来たので、近くの博物館にいた畑中氏を訪ねて「御飯つき」と云うフランス語を教えてもらっている。
それはともかく、「五百フランはらって、タクシーでわざわざ」出掛けてみたものの、味も違い「おまけに、その店の位置があきらかに昔の場所と違うと」気付かされると云う結果に終わっている。
夕刻になって藤森氏たちと戻って来た鳥飼氏から、日本人移民の話を聞かされている。単行本7頁244頁16行め~245頁5行め(文庫版246頁15行め~247頁4行め)、
私はかつて、明治時代に移民した日本人の三名の方に会ったものだ。その他に数名がいると聞/いた。そのときすでに彼らは高齢であったし、十五年という歳月は流れているし、とても生きて/はおるまいと考え、その存在も捜さないできた。ところが、まだ生存している人がいて、日本人/旅行者が会ったことがあると鳥飼さんが言う。【244】
もちろん、現在タヒチにいる日本人八名くらい(家族は除く)とはまったく接触がない。教会へ/でも行っておれば捜しようがあろうがその可能性もなく、移民局へ行っても記録がないからとて/もわからないだろうという話であった。
いずれにせよ、もの寂しい話である。なかんずく私は、清野さんという方のお宅で刺身などを/御馳走になったりしたことがあるので、胸がつまった。
この消極的な姿勢には「マンボウ南太平洋をゆく」の最後の段落、単行本245頁14~16行め(文庫版247頁13~15行め)に、
なにより過密なスケジュールの仕事のために行ったことが、私の南太平洋再訪をなにか幻滅に/終わらせたことは付記せねばなるまい。これらの島々は勤勉とか仕事とかにはそもそも無縁であ/るのだから。
と述べている、その裏返しとも云うべき事情で、『南太平洋ひるね旅』のような自由が利かなかったことも影響しているであろう。
それはともかく、この日本人移民の情報で注意されるのは「明治時代に移民した日本人の三名の方に会ったものだ」と述べていることである。11月1日付「赤いマント(294)」に引いた、ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」で、北氏は『南太平洋ひるね旅』に登場する「紺野さん」と「清野さん」の他に、もう「一人」に会ったことを話している。このインタビューについて私は、紺野氏と清野氏を「移民の子孫が二人」と述べているところから、その記憶の正確さに疑念を呈して置いたのだけれども、どうも、北氏はやはり、昭和36年(1961)12月に『南太平洋ひるね旅』に書かなかったもう「一人」に会っているらしいのである。(以下続稿)
*1:2016年11月6日付「人力車の後押しをする幽霊(5)」に取り上げたことがある。