瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(320)

朝倉喬司『毒婦伝』(1)
 朝倉喬司(1943.6.23~2010.11.30頃)が赤マント流言の起源を二・二六事件に結び付けようとしていることについては、2013年10月24日付(003)に見た通りなのですが、そこで考証したように、使用している資料『現代民話考』が流言の流行年を間違えていて、前提に疑問符を打たざるを得ない説明となっております。もちろん、前提となる資料に欠陥があろうとも、昭和11年(1936)2月下旬の事件が3年後、昭和14年(1939)2月下旬の事件に影響を与えた可能性は、否定は出来ないでしょう。しかしながら、その後私が昭和14年(1939)2月下旬頃の新聞・雑誌を渉猟して集めた赤マント流言の同時代資料を見る限り、二・二六事件の影響のようなものは(心理的に何かあるのかも知れませんが、直接的には)ほぼ認められない、と云って良さそうです。ところが現在、怪人赤マントは何故だか甚だ人気があるらしく、ネット上にはイラスト等も多々投稿されているのですが、軍服姿に描かれることも少なくなくて、朝倉氏に由来する二・二六事件関連説が深く根を張っている現状に、私なぞは歎息せざるを得ないのです。
 そして、疑問に思うとともに残念に思っているのは、朝倉氏が小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』に載る大宅壮一が流言終熄直後に書いた「「赤マント」社会学」を何故か参照していないことです。――何故か、と云うのは2013年11月16日付(026)の註に指摘したように、このちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』には、朝倉氏の文章も採録されているのです。すなわち、朝倉氏は昭和63年(1988)には赤マント流言が昭和14年(1939)春のことであったことを十分知り得る位置にあったはずなのでした。しかるに、朝倉氏は平成8年(1996)に二・二六事件説を唱え始めるのです。朝倉氏に於ける二・二六事件説の初出・再録や、その他の資料の扱いに対する疑問点については2017年2月24日付(157)に略述して置きました。
 朝倉氏は、まだ当ブログでは敢えて取り上げておりませんけれども、最晩年の著書でも平成8年(1996)の二・二六事件説を焼き直しております。従って私は、朝倉氏は赤マント流言は昭和11年(1936)に二・二六事件に刺戟されて生じたもの、と云う説を死ぬまで持ち続けていたと思っていたのです。
 ところが、少々奇妙な按配なのですが、実は朝倉氏も『犯罪百話 昭和篇』を(2020年12月23日付(310)辺りで問題にした宮田登と同じように書名を明かしていないのだけれども)参照していて、自著に活用していたのです。
①単行本(一九九九年四月十九日 初版第1刷・定価2000円・平凡社・381頁・四六判上製本

毒婦伝

毒婦伝

②中公文庫
 文庫版は未見。しかし歿後刊行だから訂正などは特になされていないでしょう。
 なお、朝倉氏は続いて次のような本も書いています。
・新書y056『毒婦の誕生 悪い女と性欲の由来2002年2月21日 初版発行・定価740円・洋泉社・220頁 尤も、こちらは「誕生」と題しているように、毒婦と云う言葉が生まれ、一般化した明治期について考察したものなので、『毒婦伝』の3人のうち昭和戦前の阿部定は登場しません。
 それはともかく、次回、ちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に基づく記述――もちろんこれには能美金之助『江戸ッ子百話』も絡んでくるのだけれども――を確認することとしましょう。(以下続稿)