11月9日付(300)に、民俗学者で大宅壮一の評論「「赤マント」社會學」に言及・活用している人が3人いると述べました。本当は順に取り上げて行くべきなのでしょうけれども、それでは中々片付かないので、最も簡単な言及について見て置くこととしましょう。
・日本口承文芸学会 編『シリーズことばの世界 第3巻 はなす』平成19年12月18日 初版発行・定価1900円・三弥井書店・246頁・A5判並製本
シリーズことばの世界〈第3巻〉はなす (シリーズことばの世界 第 3巻)
- メディア: 単行本
191~243頁「Ⅲ 現代伝説」の1章め、193~203頁、飯島吉晴「現代伝説」の1節め、193頁5行め~196頁「日常世界の拡大と口承文芸」の最後、初期の現代伝説研究について触れた箇所(196頁8~18行め)を抜いて置きましょう。
『遠野物語』(一九一〇)の語り手であった佐々木喜善*1は、自ら昔話の収集研究家としても活躍しま/したが、最初の昔話集『江刺郡昔話』(一九二二)は、昔話・口碑・民話に三分類されており、この/うち口碑は今日の伝説に当り、民話は世間話に相当するものです。民話という言葉が一般的に使われ/るようになったのは、むしろ戦後になってからです。また一九二六年刊行の『東奥異聞』には「偽汽/車の話」が採録されています。巻末の解説には、「口碑、伝説の発生と流布の一つの姿を、多くの読/者の身辺から実証しようとした著者として大胆な、かつ野心的な企てであった」とありますが、「偽/汽車の話」には口承資料だけでなく、『万朝報』の一九二一年一〇月二一日の新聞記事からも引用さ/れています。しかし、この佐々木の試みはあまり広がらなかったようです。
また大宅壮一は「『赤マント』社会学ー活字ジャーナリズムへの抗議」」(『中央公論』 一九三九・四)/で、赤マントを着た男が徘徊し通行人を傷つけるので気を付けろという流言が日本の少年少女の間に/一か月間瞬く間に流行し世間を恐怖に陥れた現象を論じています。
『東奥異聞』の「巻末の解説」とは何でしょうか。――初刊本に「解説」があったとは思えません。203頁「参考文献」にそれらしい本は見当らないのですけれども、これは2018年12月10日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(76)」に書影を貼付した次の本でしょう。
・世界教養全集21『海南小記/山の人生/北の人/東奥異聞/猪・鹿・狸』1961年12月23日 初版発行・1963年11月9日 再版発行・定価350円・平凡社・485頁・小B6判上製本
その後、並製本も出ております。――2年前は青空文庫で済ませてしまったので「解説」は読んでいませんでした。
赤い布装、角背の表紙、見返し(遊紙)は横縞のエンボス、扉に次いでコート紙の口絵に収録作品の著者4名の肖像写真、右上「柳田國男」左上「金田一京助」右下「佐々木喜善」左下「早川孝太郎」。1頁(頁付なし)目次で5行5作品。
3頁(頁付なし)「柳 田 國 男/海 南 小 記」の扉、4頁(頁付なし)下に「著 者 略 歴」、冒頭に(1875~ )とあって初版と再版の間に歿しているのだが対応していません。5~6頁「目 次」、7~95頁本文は2段組。96~98頁、大藤時彦「解 説」。
飯島氏は「巻末の解説」としていますが、本書の「解説」は「巻末」に纏めて、ではなく1作品ごとに附されております。
99頁(頁付なし)「柳 田 國 男/山 の 人 生」の扉。101~102頁「目 次」、103~206頁本文。207~209頁、大藤時彦「解 説」。
211頁(頁付なし)「金 田 一 京 助/北 の 人」の扉。212頁(頁付なし)下に「著 者 略 歴」。213~214頁「目 次」、215~320頁本文。321~324頁、久保寺逸彦「解 説」。
325頁(頁付なし)「佐 々 木 喜 善/東 奥 異 聞」の扉、326頁(頁付なし)下に「著 者 略 歴」。327~328頁「目 次」、329~389頁本文。390~392頁、佐々木広吉「解 説」。
佐々木広吉は佐々木喜善の子息で2011年3月5日付「山田野理夫編『佐々木喜善の昔話』(1)」に引いた『佐々木喜善の昔話』の「編集あとがき」に名前が見えています。
393頁(頁付なし)「早 川 孝 太 郎/猪・鹿・狸」の扉、394頁(頁付なし)下に「著 者 略 歴」。395頁「凡 例」、397~398頁「目 次」、399~482頁本文。483~485頁、鈴木棠三「解 説」。
1頁白紙があって奥付、その裏から「★ 世 界 教 養 全 集 ★ 全34巻・別巻4冊」の目録が5頁。
飯島氏が「巻末の解説」として引く文章は391頁13~18行めの段落に見えております。ここでは段落全体を抜いて置きましょう。
「偽汽車の話」を再録したことは、口碑、伝説の発生と流布の一つの姿を、多くの読者の身辺から実証しよ/うとした著者として大胆な、かつ野心的な企てであったにちがいない。それは大正の末期のこのころともなれ/ば、いくら東北の山村であっても、これらの説話が世間話として通用する場合には、最初はこうした題材の新/しい真証性のあるごときものが口火の役目をつとめ、たとえば囲炉裏を囲んでしだいに古いものへと話の花が/咲いてゆく順序をとったからであろうと思う。これは筆者の体験による、実験結果とその考察というところで/あろう。【391】
ついでが長くなりましたが、「『赤マント』社会学―活字ジャーナリズムへの抗議」について――鉤括弧が多いのも気になりますが、たったこれだけなのに内容を正確に伝えていないことも気になります。「日本の少年少女の間に一か月間」で流行、などと云ったことは、全国紙も全国放送もなかった当時、あり得ないことでしょう。
いえ、大宅氏の文章の最後は、2013年11月25日付(035)に見たように、
僅か一ケ月ばかりではあるが、全帝都を風靡した「赤マント事件」も、実はその「抗議」の幼稚な、原始的な形態なのである。
との1段なのです。より具体的には、2013年11月20日付(030)に見たように冒頭近く、
‥‥。その分布範囲は明らかでないが、東京全市をはじめ、その接続町村から近県にまで及んだのではないかと思はれる。‥‥
とありました。結果的に、昭和14年(1939)のうちに朝鮮半島にまで達し*2、しかも日本人だけではなく Korean の間にも伝播したらしい*3のですけれども、それは6月下旬~7月上旬の大阪での流行と同じく、大宅氏が「「赤マント」社会学」を発表した後のことになるのです。(以下続稿)