瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(321)

朝倉喬司『毒婦伝』(2)
 昨日の続き。
 装幀その他は文庫版と比較する機会を得て記述することとしましょう。
 取り上げられている毒婦は次の3人です。
・5~127頁「高橋お伝
・129~245頁「花井お梅」
・247~377頁「阿部定
 小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』を、朝倉氏がそれと断らずに使用しているのは、もちろん3人のうち唯一昭和に属する「阿部定」です。すなわち、犯行現場の尾久の待合「満佐喜」を後にしたところで1行分空けて、281頁10行めから。

 待合を出た定の眼前には、不安定に揺れながら傾いた街、いやいや、その年の二月に起きた青年将/校の叛乱の記憶もナマナマしい東京があったのだが、そんな東京を彼女はタクシーで、まず新宿へ向/かっている。
 尾久から新宿へ。
 昭和のはじめころ、
 「女は尾久へ行くと殺される」
という妙な噂、いまでいう都市伝説が市中に広がったことがあるのだという。【281】
 能美金之助『江戸っ子百話』に出てくる話なのだが、理由は簡明で、そのころ尾久で、商店の若い/主婦が白昼、たてつづけに三人、殺害されるという事件があって、犯人がなかなか上らず、ナゾがナ/ゾを呼ぶ式の噂が広がったのである。能美は記してはいないが、噂にはおそらく、尾久という地域に/対する隠微な「特別視」の感情がまつわりついていたのだと思われる。
 能美はまた、尾久と隣りあわせの日暮里について、こちらは大正のはじめ、
 「火事の名所」
という芳しからぬ定評が一般化したのだと述べている。
 「当時の日暮里は、襤褸やその他、廃物の蒐集地であった。下谷万年町その他の廃品業者が法令で/日暮里町に指定移住させられたのであった。火災が多かったのはそのせいで、その後、廃物業者を足/立の西新井に移転させたため、火事の名所という名称は日暮里町より消えた」
 述べられているのはつまり、明治から昭和にかけて都市東京の「近代化」が急進展するについての、/市街地の「スラム的なるもの」の、傍若無人な排除のヒトコマ。こうした排除の進行によって(地理的な与件と直接関係はなく)周縁化された地域に日暮里や尾久が属していたことを、これらの伝説/(の発生そのもの)が、よく示している。火事や「女が殺されること」が、地域の底深い特性と骨がら/みになった事象であるかのごとき噂の容態は、あきらかに地域の辺縁性に触発された想像力の介入あ/ってのものである。


 まだ続きますが282頁16行めまでを抜いて見ました。
 確かに、関東大震災までは東京府北豊島郡日暮里町が東京の市街地の北の外れに当たっていました。北豊島郡尾久村はその北に「隣りあわせ」ではありますが、下尾久(≒東尾久)上尾久(≒西尾久)などの集落と日暮里町の間には広い田圃が続いていました。それが関東大震災を契機に、荒川縁の北豊島郡尾久町(大正12年4月町制施行)まで市街地が拡大したのです。ですから「大正のはじめ」に東京の周縁(辺縁)であった日暮里町が噂(都市伝説)の現場になり、続いて「昭和のはじめごろ」に東京の周縁(辺縁)になった尾久町がまた別の噂(都市伝説)の現場になった、という指摘は、一見尤もらしく思われます。
 それはともかく、ここに引用されている能美金之助『江戸ッ子百話』ですけれども、標題の促音を片仮名ではなく平仮名にしてしまっている辺りからしても*1、朝倉氏がこれを愛読して「明治から昭和にかけて都市東京の「近代化」が急進展するについての」多くの事象を掘り起こそうと努めた結果の一端を、ここに活用して見せた、と云った訳ではないもののようです。
 朝倉氏が引用している箇所ですが、2014年2月20日付(120)に引用してあります。但し朝倉氏と同じく孫引きですので、今回は改めて原本の能美金之助『江戸ッ子百話』下、第九十八話「尾久の奇怪なる連続事件/及び阿部定騒ぎ」(昭和44年12月)から抜いて置きましょう。能美氏の本については2月25日付「能美金之助『江戸ッ子百話』(1)からしばらく確認しております。
 223頁13行め~224頁8行め、

 また、大正の初め頃、日暮里町に頻々と火事があった。その当時の東京人は恐れて、「日暮里町は/【223】火事の名所」としてしまった。当時の日暮里町は、襤褸や紙屑その他、廃物の蒐集地であった。下谷/万年町その他の廃品業者が法令で日暮里町に指定移住させられたのであった。火災が多かったのはそ/のせいで、その後、廃物業者を足立の西新井に移転させたため、火事の名所という名称は日暮里町よ/り消えた。
 それから尾久町である。昭和の初め頃より東京市民は言うた。「女は尾久へ行くと殺される」と。/それが、かなりの評判になったことがあった。それは、昭和の初年頃、荒川の尾久町で、若い商店の/主婦が三人、短時日のうちにあいついで白昼殺されたことから発したものであった。それで市民は尾/久を懼れて女は尾久へ行くな――と言ったのであった。


 朝倉氏は2014年2月20日付(120)に取り上げたPHP文庫『都市伝説王』や、2月24日付(313)に確認したようにその典拠である宮田登の諸著作のような誤読をしておりません。しかしながら、長くなったので次回に回しますが、続きを読んで行けば朝倉氏も、宮田氏と同じ典拠、すなわち小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』に依拠してこの辺りを発想していることが明らかになるのです。(以下続稿)

*1:文庫版ではこの標題は修正されておりましょうか。