昨日の続き。
・略地図と口絵写真
①初版の見返しは黄緑色の用紙で表紙見返しの見開きにのみ右が上で横転した手書きの子持枠(21.6×15.8cm)にて「北アルプス連峰と周辺」と題する、白馬岳から乗鞍岳まで略地図がある。
②復刻版の見返しは淡い縹色の用紙で、表紙見返しの遊紙の裏に、半分の大きさに書き直された略地図「北アルプス連峰と周辺」がある。範囲は同じ。異同は枠がないこと、薄墨で記入されていた山形が▲になり、同じく川の流れやダム湖も薄墨で描かれていたのが、文字だけになっている。それから富山県と岐阜県の県境の一点鎖線がなくなっている。文字は県名や初版では県名・都市名・鉄道路線に一部の道路名が明朝体になっていたがや全てゴシック体になっている。また題「北アルプス連峰」の下に明朝体で「 (飛驒山脈) 」と別称を添えるが、復刻版では題から「(飛騨山脈)」が離れて、何のためにこの文字があるか分からなくなっている。
見返し(遊紙)に続いて、①初版は1頁(頁付なし)扉がある。表に横縞を漉き出した白い用紙で、やはり表に茶色で印刷、文字は全て明朝体横組み中央揃えで上部に太く大きく標題、その下にやや大きく「長沢 武」、最下部に横長太字で版元名。中央やや下に吊橋の写真(6.4×4.6cm)。②復刻版にはこのような扉はなくアート紙の口絵になっている。
アート紙の口絵は①初版も②復刻版も4頁で頁付はない。但し初版では3~6頁に当たっているはずである。
そしてこれに、昨日見た②復刻版「あとがき」に改めて「写真の用意」をした、とあるように、かなりの差し替えがある。
仮に《番号》を附して出入りを確認して置こう。
・1頁め、右下の明朝体縦組みの文はほぼ同じ。改行位置を①初版「/」②復刻版「|」で示し、異同を註に示した。
北アルプスは日本の屋根。南北およそ九〇/㌔*1の間に二五〇〇*2~三〇〇〇㍍*3級の鋭|鋒・名/山四十三座*4を数える。原始には山岳信仰|とし/て畏怖され、以後近代登山のれいめい*5期を経/た|後も、山ろく*6に住む人々は深いかかわりの/うち|に、幾多の史実・伝説・ロマンを抱きつ/づけて|来た。
山は――つねに人と時代とともに生きてい|る。
①初版は上半分に写真《1》、下に左寄せで「雲海の前穂高岳 穂苅貞雄・撮影」のキャプション。下左に《2》恐らく安曇野の農村から北アルプスを望む写真、キャプションなし。②は写真が3つ、いずれも下に左詰めでキャプション、上に《1》「白馬岳山頂から東の方面にできた雲海を見る」、文の左、上に《2》「かっぱ橋からの岳沢と穂高岳」、下に《3》「大正初年の白馬岳山頂の石室と登山者」。
・2頁め、①初版の上(右寄り)《3》「探索行の折、中山喜一はよく写真を撮っている/これは有峯の総代川口一家」この写真は②復刻版に中(左寄り)《5》に縮小して収めてある。キャプションは「探索行の折、中山喜一はよく写真を撮っている。こ/ れは有峯の総代川口一家 (左端は中山喜一氏)」。①初版の下(右寄り)《4》「これも中山が撮影した、そのころの有峯の風景/人家のすぐ脇に墓所が見える」。②復刻版の上(右上端)《4》「白馬岳と白馬山荘、昭和三五年八月撮影」、下(右寄り)《6》は①初版の3頁め上右の写真を縮小したもの。
・3頁め、右側上下の写真は2頁めに一部入り込んでいる。上右《5》「大正期の白馬山頂、岩室小屋帳場の様子/丸山 高 蔵」これは上記のように②復刻版にも再録されているがキャプションは「大正期の白馬山頂の岩小屋の帳場の様子/ (缶詰の隣にランプ、ワラジの売品が見える)」2行めは右詰め、初版に比して上と左右が広い。下右《6》「大正時代の登山姿、雨具はゴザにスゲガサ/松沢寿幸 蔵」これは②復刻版の上《7》に縮小して、キャプションを1行「‥‥スゲガサ 松沢寿幸 蔵」として収めている。①初版は左側の中央に明朝体縦組みの文、これは②復刻版は4頁め右下に収められているので、4頁めにて検討しよう。その下(左下)に《7》「白馬岳と白馬山荘、昭和35年撮影」これは②復刻版《4》の遠景写真から白馬岳山頂と山荘を拡大して左右と下を大幅にカットしたもの。②復刻版の中左《8》「豊島、窪田、渡辺、加納の四人が白馬登山/に行ったことが記してある、明治一六年八/月の「北城学校日誌」の部分」、中右《9》「黒部奥山廻り役が画いた富山側からの絵図/の白馬連峰の部分/(南から後立山、赤鬼ヶ岳、ミカゲ岳、錫/杖岳、鑓ヶ岳、上駒ヶ岳などの山名が見ら/れる)」、下《10》「大正時代の猿倉休憩小屋」。
・4頁め、上に同じ写真、但し①初版《8》は上の空が狭く下の麓が広く、山頂の左ですぐに切れている。②復刻版《11》はやや縮小。キャプションは①は図中の右端に縦に黒く縁取った白で「農作業の目安になった雪形、これは白馬岳山頂の雄馬と雌馬」、②は下に左詰めで「山名の基になった白馬岳の雄馬と雌馬の雪形」。①初版の下右《9》の松の絵の掛幅は②復刻版では下の右半分に上記の文が入っているので、その左の、さらに左《12》に落款が読めないくらい縮小されて入っている。①初版の下左《10》の七言絶句の掛幅は②《13》に若干縮小されて収まる。キャプションは①は左下に縦組みで「 白馬岳最初の近代登山者の一人/窪田畔夫は北安曇郡長で書画もよ/くした。右は二点とも横川和足蔵」とあり、②は《12》《13》の下に「白馬岳最初の近代登山者の一人窪田畔夫は/北安曇郡長で書画もよくした」とある。①初版は3頁め左中、②復刻版は4頁め右下にある文は以下の通り。
数多い山と人のエピソードの中でも――/弧立*7の|豪雄、富山城主佐々成政が落城の後、/家臣に命じ|て北アルプス山中に埋蔵したとい/う百万両*8の|小判は、人々の夢を駆りたてる。/中山喜一(北安|曇郡池田町)は明治末年から/昭和にかけて、埋蔵|金探索に情熱と家財を傾/けた。そのような思いは|現代人にも引き継が/れ、今日もまた北アルプス山|中を、誰かが幸/運と背中合わせの夢を追いつづけ|ている。
この埋蔵金のことは、2020年1月26日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(147)」に挙げたように、青木純二も「日本アルプスに二千万円の宝窟」と題して書いている。中山喜一に触れているであろうか。
①初版にあって②復刻版にない写真、その逆もあるが、或いは本文の方に使われているかも知れない。それは追々註記しよう。(以下続稿)