・辺見じゅん「十六人谷」(4)まんが日本昔ばなし②
昨日触れた「まんが日本昔ばなし〜データベース〜 ⁃ 十六人谷」のコメント欄には22件のコメントがあるが、2012~2019年の18件は、一部に詳しい分析があるものの、殆どは、内容の怖さを訴えるものが多かった。ところが Perenna が寄せた19件め(2020年2月23日)が『越中の民話』第一集*1の「十三人の炭焼き」が原話である可能性を指摘し、21件め(2020年12月19日)では、清水真弓(辺見じゅん)が関わって少し前に刊行されていた角川書店版『日本の民話』シリーズと、未来社版『日本の民話』シリーズの再話姿勢の違いを指摘し、最新の22件め(2021年7月17日)では、当ブログでも8月4日付(08)に紹介した「富山伝説散歩」の十六人谷に関する記述を引用し、「まんが日本昔ばなし」は辺見じゅん「富山伝説十五選」と同じストーリーだが、「改作や創作をしているみたい」だと指摘している。また20件め(2020年12月19日)の投稿者「42目」は、他の本に出ている十六人谷伝説との異同を指摘し、木を伐採していない弥助が殺される理不尽、そして弥助は最後まで他の人間には語っていないのに「この物語は誰が伝えたのか?」と云った設定の矛盾を指摘している。
8月5日付(09)に指摘したように色々と組み合わせて少なからぬ矛盾を抱えてしまった辺見氏の再話を真面目に解釈すると云うのは、私なぞには突っ込みどころの指摘としてしか出来そうにない。いや、私の場合「42目」氏同様、原拠を確かめて改変によりおかしくなったところを指摘して行く作業になる。やはり急に頭で拵えたものには無理が生ずるのである。そのズレがどこで生じたのか確かめるためには、1つ1つ辿って行くしかない。若かったら分かっている限りの valiant を全て集めてから始めるのだが、このような状況下になる前から旅行などに落ち落ち行っていられなくなっていたから、まぁあり合わせの材料の整理だけでも一通り済ませてしまおうと思ったのである。そうでないと、Perenna 氏のような勘と筋の良い人物に(着手したのは私の方が先だから、まだ私の知らぬことまでは達してなさそうけれども)追い抜かれ兼ねない。
そして前回、8月6日付(10)に見たように「まんが日本昔ばなし」は辺見版に細かく手を入れているのだが、その結果「頼む相手が違うだろ」と云う突っ込みを浴びる結果となっている。もちろん、伝説には、元々が理不尽な内容であったものが少なくないのだが(コロナ蔓延が予想された酷暑の中、オリンピックを強行しているのだから現実はしばしばその上を行く)、その上、口承もしくは書承で伝わって行くうちに、話を膨らませたり我流の解釈を加えたりする人が内容に介入して来る。しかし大抵そこから新たな綻びが生ずる。その齟齬に、更に妙な辻褄合せが重ねられる。或いは辺見氏のように大胆に話の設定を作り替えてしまう人も出て来る。そこに新たな魅力が生じる場合もあるだろうけれども、私にはやはり、賢しらの介入が繰り返された結果、妙な按配になってしまったものと云った印象が強くて、余り感心しない。――この、原型を求める心は、小学6年生の頃に十分意味も分からず叩き込んだ民俗学的思考の残滓なのかも知れない。(以下続稿)
【追記①】「まんが日本昔ばなし」版の分析・感想として、分量があって読み応えのある「3行で探せる本当に怖い本」の2017年11月21日投稿/2020年12月26日更新、きうら「十六人谷(まんが日本昔ばなしより/富山の伝説<24>より)~話の全容(ネタバレ)と感想」を挙げて置こう。書名を挙げているが『富山の伝説』は参照していないようだ。こういう文章を読むと、私にはつくづく物を怖がる感性が欠落していると思い知らされる。
【追記②】dakuroh のブログ「東北まったり山行記」の2005年10月20日「まんが日本昔話(十六人谷の思い出)」は、記憶に頼って「まんが日本昔ばなし」の「十六人谷」の粗筋を述べているが、美しい女が夢に出てきたこと、恨み言を言われつつ一人だけ見逃され「ここであったことは決して誰にも言ってはいけないよ」との禁忌を課されることなど、辺見版「十六人谷」に近くなっている。山刀で斬り付けるよりもこの方が良いと思う。それ以外の部分も辺見版及び「まんが日本昔ばなし」よりも自然な展開になっているように思う。特に、話してしまった相手の娘に「おお,お前はあの娘にそっくりじゃのう」と言うのは出色である。――余計な思い付きで妙な綻びの目立つ改作に比して、記憶が物語を合理化し、違和感ない形に整えた好例として、推奨して置きたい。
*1:【9月30日追記】何故か『富山の民話』と誤っていたのを訂正した。