一昨日からの続き。
・橘正典『雪女の悲しみ』(3)
昨日は、目録・データベース類の誤りと、本書執筆の背景を見ただけで終わってしまった。
さて、表題作となっている「雪女の悲しみ/ ――ラフカディオ・ハーン『怪談』考――」だけれども、昨日示した『富山大学ヘルン文庫所蔵/小泉八雲関係文献目録』の細目からも分かるように、「雪女」だけを論じたものではない。
まづ、ハーンの怪談をまとめて読んだ高校教師時代の「雪女」解釈を、3~8頁「序」に述べている。私の当面の目的はハーン「雪女」の文学的解釈にはないので*1、面白いと思ったけれども割愛する。
次いで9~24頁「体 験」に、ハーンの作品の背景にある、父母の離反とマティ・フォウリーとの結婚とその破綻について述べる。
25~42頁「美と倫理――ポーとハーン――1」はポーの影響作と、ポーとの違いについて、43~81頁「美と倫理――ポーとハーン――2」はジャーナリストとしての仕事からハーンの倫理主義について、82~112頁「怪異譚 1」は倫理の有無を軸にハーンの怪談を分類して検討、113~128頁「怪異譚 2」は「伊藤則資の話」を取り上げて掘り下げ『天の川綺譚』にまとめた七夕伝説と結び付けている。129~136頁「結 び――『雪女』――」で以上の考察を踏まえ、日本の昔話も俎上に上せて「雪女」について、新たな解釈を示している。
ここで、おや、と思うのは、橘氏は必ずしも昔話先行説を否定していないことである。
すなわち「体 験」の章の冒頭、9頁2~6行め、
ハーンの後年の怪異譚が、幼少時の彼の体験と深い関係をもつことは現在ではよく知られて/いる。彼の幼少期の体験のなかで注目に値するのは、父母の離反、夢魔に襲われたり白昼夢を/見る恐怖の体験、それに左眼失明事件を加えていいかもしれない。恐怖の体験については次章/で検討するが、父母の離反については、これも現在では周知のことがらなので、必要最小限度/のことを述べておく。
としてダブリンの大叔母に預けられるまでの不幸な経緯を略述し、10頁8行め~11頁5行め、
この子供にとって苛酷な体験が、例えば『雪女』にどのように反映されているかが、問題で/あるが、これも現在までの通説はだいたいつぎのようである。巳之吉に禁止*2を破られて彼のも/とを去るお雪(雪女)には、チャールズ・ハーンに裏切られてダブリンを去ったローザ・カシ/マチの遺恨が反映されている。同時に、巳之吉の側に立てば、お雪の突然の消失は、四歳のと/きの母の突然の消失により蒙ったハーンの精神的外傷*3を反映していることになる。また、ハー/ンの『雪女』の原話がどれかは現在までのところ確定されていないが、類似の民話では、茂作/と巳之吉は親子になっているのに、ハーンの作品では二人が他人になっているのは、彼の父親/排除意識が作用したのであり、その分巳之吉の母親が重要な役割をはたしている。いいかえる/と巳之吉の母親もハーンの母ローザへの思いが生んだ無意識の像である、ということになる。/【10】ここまでくると、お雪にもハーンの母の反映があり、巳之吉の母親にもハーンの母の反映があ/る以上、この二人の仲がうまくいくのももっともだ、と半畳を入れたくなるが、ともかくお雪/は巳之吉の母親に気に入られ、申し分のない嫁となり、母親は息を引きとるときほめ言葉と礼/をいって亡くなる。ここには、ハーンの幼少期に欠落していた暖かい家庭への憧憬、彼の夢想/した理想の家庭像が描かれている、と考えるのである。‥‥
私はまだ「雪女」の先行研究を、当ブログで取り上げた以上に読んでいないので、11頁9行め「これら『雪女』に対する幼児体験反映論」が、誰々によって唱えられたのか、知らない。しかし「類似の民話」の存在をハーン研究の俎上に載せたのは中田賢次だから、「民話」との関連を述べた説は中田氏か、中田氏の説を承けた、昭和60年(1985)前後の書籍か論文に見えているのであろう。――もちろんここは先行研究の論を列挙しているだけだから、これを以て橘氏が昔話先行説を採っている、と云うことにはならない。
そして「結 び――『雪女』――」で再度「民話」を取り上げて結論を述べるのだが、9月30日付(59)に引いた牧野陽子の新稿での紹介だと、牧野氏の旧稿の説に承服して昔話先行説に疑問を表明しているように読める。しかし、原文に即すと、確かに「白馬岳の雪女」については疑問を述べているけれども、昔話との関連を見ると云う点ではむしろ積極的なのである。いや、「白馬岳の雪女」についても、牧野氏が疑問を表明しているので保留にした、と云う風に見た方が良いように、思われるのである。(以下続稿)