瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(23)

 これまでしばらく、当ブログでは、道了堂の解体年は昭和58年(1983)とされているが、これは誤りであると述べて来た。すなわち、3月23日付(17)に述べたように「何故このような誤った説が生じ、流布してしまったのか、その原因を探ることがその第一、そして正しい時期を突き止めてこれを世間に定着させることがその第二」の目的なのだけれども、資料の確認ばかりで中々核心に到達しない。いや、解体年が誤りであることは分っている。正しい時期をまだ解明出来ていないので、先に進めないのである。
 しかし、余りぼんやりした状態で続けても隔靴掻痒であろうから、ここらで現時点で私が確認している、最も古い、道了堂が存在しないことを明記した文献を取り上げて置こうと思ったのである。
・多摩文化資料室 編集「多摩のあゆみ」第五十五号・平成元年五月十五日印刷 発行・多摩中央信用金庫・132頁・A4判
 1頁「もくじ」、2~104頁「特集・多摩の道探訪」は10人10篇、1篇め(2~25頁)馬場喜信「多摩の道歩き入門――歴史のなかの道の相貌」は概説的な文章で道了堂には触れていないが、4篇め(40~52頁)鈴木利信「絹の道」は道了堂に触れている。
 章立てを見て置こう。40頁上~中段「はじめに」40頁下段~42頁下段3行め「鑓水商人」42頁下段4行め~44頁上段8行め「八王子への道」44頁上段9行め~下段19行め「八王子の市」44頁下段20行め~46頁中段11行め「生糸の賃挽き」46頁中段12行め~48頁中段19行め「開港・横浜への道」48頁中段20行め~49頁下段13行め「馬と車輌」49頁下段14行め~50頁下段15行め「売込み商と取引き」50頁下段16行め~52頁上段3行め「絹の道の現況」52頁上段4行め~中段2行め「おわりに」52頁中段3~24行め「注」52頁下段、顔写真の下に「すずき としのぶ八王子千人同心編集委員/桑都民俗の会々員/八王子市在住」とある。
 「絹の道の現況」の後半を抜いて置こう。片倉の慈眼寺から道了堂跡を経て八木下要右衛門屋敷跡まで、51頁下段2行め~52頁上段3行め、

 慈眼寺の境内を出て左へ、道はゆるい/上り坂でかつての絹の道の面影がわずか/ながら残されている。しかしながら、開/発が急ピッチで、遠からず住宅地の露地/になると思われる。間もなく片倉台団地/の大通りへ出る。一片の痕跡も残らなか/った大造成地のかなたに、道了堂の森が/まるで古墳のように見える。
 片倉から鑓水峠へ登る尾根道は雑木林/の中の一本道であったが、いまは国道一/六号線バイパスに沿って道了堂の森を目/指して行くと,東側に造られた階段を登/って道了堂の境内からの絹の道の碑の前/に出られる。片倉方面の開発を契機に昭/和四十七年に、道了堂から南側の約一・/五㌔㍍が八王子市の史蹟に指定されて、/かろうじて面影をとどめた。
 道了堂は、明治六年に鑓水商人が商売/や道中の安全を願って、浅草の花川戸か/ら移築したものである。いまは、崩壊し/て、荒れ果てた境内に礎石を残すのみで/ある。【51】
 現在、八王子市によって要右衛門屋敷/の復元をはじめ、絹の道にかかわる整備/の計画が進められている。


 「崩壊して」、また「礎石を残すのみ」とあるから、廃屋となって老朽化の進んだ道了堂は、倒壊したために撤去された、と読める。しかし、いつ「崩壊」したのか、書いていないから、平成元年(1989)春には道了堂は跡形もなくなっていた、と云うことが云えるのみである。
 しかし、道了堂が解体撤去されて、大塚山公園として整備されるまでの記録は他にない(らしい)ので、貴重である。(以下続稿)