瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(55)

・馬場喜信『八王子片倉台の地誌』(4)
 本書については昨日取り上げた追補版の「追補⒈ 完成した片倉台のことなど」の記述を取り上げるのが主たる目的だったので、そもそも(初版と恐らく同内容の)再版ではどのような記述が為されていたのか、まだ確認していなかった。
 いや、全体の内容について、細目を上げて確認して置きたいところなのだけれども、中々着手出来ないでいるうちに返却期限が来てしまったので、それはまた改めて果たすこととして、今回は道了堂の記述に限って取り上げて置きたい。
 道了堂及び絹の道に関連するのは、16頁5行め~18頁7行め「⒎ 〝絹の道〟のこと」18頁8行め~20頁「⒏ 道の探索」21~23頁4行め「⒐ 大塚山――十二州見晴しのこと」23頁5行め~26頁1行め「⒑ 道了堂」の4節であるが、ここでは道了堂について纏まった記述のある「⒐」「⒑」の2節について見て置こう。
 21頁2~5行め、

 大塚山は私たちのまち片倉台の外にあるが家並みのすぐうしろに密接しており、町の/背景として欠かすことのできない存在と思われるので、ここでとりあげておきたい。
 「鑓水大塚山道了堂は、この附近における最高地点で、台地の上に築きたてた古塚の/ような丘の上にある。大塚山という名も、この丘の形によるのであろう。‥‥


 この引用箇所は、後日原本から原文を抜いて検討する予定なので割愛する。続いて9行め~22頁9行め、

/‥‥。晴れた日には相模灘も見られるという。」(武蔵野歴史地理第四冊(初版は昭和七/年)より、現代文に書き換えた。) 簡にして要を得た説明で、とくにつけ加えることは/【21】ないが、少し書き足しておこう。
 大塚山という名がその形によるというのは、現在ふり仰ぐ姿からしても納得がゆくよ/うにも思われるが、実際は、鑓水村の名主を勤め明治になって絹商人として活躍し、道/了堂建設に力のあった大塚家の名によるともいう。江戸時代の風土記や名勝図会には大/塚山の名はなく、鑓水峠として記録されていることも、この説を裏付ける。今この山の/西の肩に建つ電波中継塔の説明には御殿山反射板と書かれていて、これもこの山の名の/ようでまぎらわしいが、御殿山は山名ではなく御殿峠南方の一帯をさす地名のようだ。
 山上に残る道了堂の背後に国土地理院の三角点標石が埋められていて、現在の地形図/では高度二一三・四、西の御殿峠の山頂も全く同じ数値である。‥‥


 そして「⒑ 道了堂」には、その冒頭、23頁6~7行め、

 大塚山の頂に廃屋になった道了堂がある。なぜこのような所に、このような姿となっ/て、この御堂があるのだろう。道了堂という名も聞きなれないものである。

と前置きして『日本国語大辞典』の「道了薩埵」項を引き、4月9日付(28)の後半に見た明治43年(1910)刊『八王子案内』にて大雄山最乗寺の道了薩埵との関係を確認している。24頁上は写真で「片倉台から仰ぐ道了堂のある森・大塚山」のキャプションを下に添える。
 そして24頁7行め~25頁8行め、

 絹の道をたずね歩き、聞き書きと詳細な調査と/によってこの道にまつわる民衆史を描いたのが辺/見じゅん『呪われたシルク・ロード』で、同書に/よれば、道了堂は、正しくは永泉寺別院大塚山大/学寺といい、通称が道了堂。曹洞宗永泉寺の十七/世渡辺大淳が寺の経営に失敗して退き、同じ曹洞/宗で関東随一の名刹といわれる最乗寺の道了尊分/【24】霊を祀って、明治七年に創/建したという。以後、絹の/道の盛況につれて参詣者で/賑わい、この道と盛衰を共/にしたようだ。
 劇的とも言うべきその歴/史の詳細は同書にゆずり、/ここではその中の一枚の銅版画にふれておこう。‥‥

として石版画「武蔵国南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之図」に触れる。
 「⒐」にある、大塚山の名が大塚家に由来すると云う説も『呪われたシルク・ロード』に見えるものである。馬場氏は【参考文献】にも64頁5行め「㊱呪われたシルク・ロード辺見じゅん角川書店」を挙げ(刊年は入れていない)7~8行め、

‥‥。㊱八王子市の鑓水と恩方の二地/域についての最も詳しいドキュメント。とくに鑓水と結ぶ片倉についても必読のもの。

と推奨していた。
 25頁7行めまでの字数が特に少ないのは、上部(25頁右上)に写真「道了堂境内に残る石灯ろう」があるからで、例の、2基並んで石垣の上に乗っている石燈籠だが、石垣に立像の石地蔵を凭れ掛からせてある。両手は合掌しており、頭部は欠損していない。(以下続稿)