・法政大学地域研究センター叢書5『歴史的環境の形成と地域づくり』(2)
4月5日付(26)に見た、編著者の馬場憲一が序章で述べている本書のもととなったプロジェクトの研究会について、馬場喜信の発表と論考「浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」に関わる箇所の原文を抜いて置こう。
6頁2~4行め、
・二〇〇二年七月二〇日(土) 研究会 多摩キャンパス総合棟(参加者一一〇名)
発表者 馬場喜信
発表テーマ 浜街道 :鑓水峠道―歴史的景観の発掘と史跡化―
序章では研究会・シンポジウムの開催状況に続いて、収録した論考の概要を述べている。8頁15行め~14頁9行め「第一部 歴史的環境の形成と展開」の12頁9行め~13頁2行め、題は明朝体太字でやや大きい。
第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化― 馬場 喜信
本稿は、幕末維新期から明治初期にかけて八王子から横浜へと輸出用の生糸を運ぶのに盛んに利用された「浜街/道」という歴史的な街道を取り上げた論考である。
鉄道輸送の開始ととも*1浜街道の役割は終わり、とくに八王子市南部の鑓水峠を越える区間はその存在すら忘れら/れかけていた。この峠越えの道が民衆史蹟建碑運動を主唱していた故橋本義夫氏によって日本の蚕糸業史蹟として/見直され、一九五七年、道筋の最高地点である鑓水峠に《絹の道》碑が建立された。この頃から多摩丘陵一帯での/大規模な宅地開発が始まる。その並が鑓水峠近くまで押し寄せてくるなか、一九七二年、八王子市はかろうじて残/されていたこの峠越えの道の一部を《絹の道》として市史跡に指定、保全のための方策も講じた。こうしてこの道/筋は近代産業史跡として新たな脚光を浴び、訪れる人も増えるようになる。この間の動向を歴史的景観の発掘と史/跡化を考える際のもっとも典型的な事例を提供するものとの視点から論じている。浜街道は後に国の《歴史の道百/【12】選》に選定されるなど注目も浴びるが、道の周辺での開発はなお進みつつあり、景観保全と活用の新たな課題にも/直面していることなどを明らかにしている。
それでは馬場氏の論文、203~226頁「第七章 浜街道《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化―」を、道了堂に関係する記述を抽出しつつ眺めて見よう。
203頁3行め~204頁9行めは前置きで、浜街道=《絹の道》について略述している。序章の紹介に重なるところも多いので、ここでは最後、論文の狙いを述べた箇所を抜いて置こう。204頁8~9行め、
いったんは忘れられた道の歴史的景観を発掘し、その史跡化へと進められた軌跡を振り返り、あわせて、この道/が日本の近代化と多摩の地域史において果たした意味やこれからの課題について考えてみたい。
204頁10行め、3行取り3字下げでやや大きく節題「第一節 浜街道《絹の道》の生成から衰退まで」でこの節は207頁まで、204頁11行めに明朝体太字で「(1)浜街道とは」とあって本文は12行め~207頁1行め、八王子から東海道の芝生(現・横浜市西区)に至るルートと経由地の鑓水を根拠にした《鑓水商人》の活動について述べる。205頁上「図1 浜街道全図〔20万分1地図(明治21年(1888)作成)に太線を記入した。〕/ 図中の枠内が片倉―鑓水峠―鑓水の地域」キャプションは下に横組みで小さく添える。206頁上「図2 浜街道:鑓水付近の新旧対照図〔2万5000分1地形図〕〔左は昭和46年(1971年)、/ 右は平成5年(1993年)の修正測量によるもの〕」図1の図中の枠よりも北と西は狭く南は若干広い。
1行分空けて207頁2行め「(2)浜街道―盛時から忘れられた時代へ」3~18行め本文。ここに3行め「後掲の〔年表〕」が持ち出される。これは稿末、219頁13行めに「〔年表〕《絹の道》―歴史的景観の発掘と史跡化(一八七四年~二〇〇四年)」とあって、以下226頁まで2段組の年表になっている。この項に関連するのは219頁14行め~221頁上段13行め「① 浜街道―盛時から衰亡へ」と、1行分空けて221頁上段14行め~下段13行め「② 忘れられた時代―《絹の道》以前」である。ここに創建から戦前までの道了堂に触れるところがあるが、やや長くなるので詳細は次回検討することとしよう。(以下続稿)
*1:ここに「に」があるべきだが脱落している。