瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(87)石造物②

・道了堂の石造物(2)
 昨日の続き。参照した文献①②③④とブログについては昨日の記事に紹介して置いた。
 8~9頁11行めは「絹の道」碑について、銘文や橋本義夫など地域史研究の先人について述べている。6月23日付(84)に述べたように、別の節に紹介済みであるので41頁〔57頁〕16~17行めに触れるのみである。は9頁左上に写真を掲載、9頁2~4行め、12頁1~2行めに触れ、135頁8行め~136頁8行めに銘文や建立した橋本義夫について述べている。
 それでは石段の途中から見て行こう。9頁12行め~10頁2行め、

 さて、石段を九段のぼると左右に高さ一二〇センチくらいの灯籠の/竿の部分のようなものがたおれている。右のものには「寄進 野津田/【9】村 萩生田豊次郎」「明治十五壬午年九月一日」とあり、左のものに/は敷石を寄進した人々の名が刻まれている。‥‥


 これと同じものは、まづ141頁3~6行めに右側のものが、

 公園には、鑓水商人だけでなく、八王子とその周辺の生糸商人たちが立てた石造/物がいくつか遺されています。順に見てゆきましょう。登り口の石段の下の右手に/立っている旗立台のような石の柱は、一八八二年(明治一五年)に野津田村の人が/立てたものです。野津田村は、いまは町田市になっています。‥‥

と記述されている。野津田村は当時神奈川県南多摩郡で現在は町田市野津田町
 左側のものは141頁9~10行め、築礎碑の紹介を挟んで、

‥‥。その手前の、同じ年に立てられた石碑には、石段の敷石を寄進した人々の名が三〇人ほど刻まれています。

とある。築礎碑と「同じ年」と云うことであろう。なお、石段については「7 諏訪神社〔2〕石灯籠と社殿を見る」の199頁2行め、現在子ノ神谷戸にある鑓水「諏訪神社は、もとは日影谷戸にありました。」として、6行め「棟札*1」から由緒が分かることを紹介し、8~10行め、

‥‥。/一八七六年(明治九年)に、いまの地に移されました。なお、それまでの石段が、/大塚山公園の道了堂参道に移されて、いまも残されているということですから、わ/たしたちは、すでにその石段を登ってきたわけです。

とする。なお鑓水諏訪神社の「いまの地」に元からあったのが、現在は合祀されている11行め「子の神神社」で、だからこそ字「子ノ神谷戸」なのである。
 それはともかく、に戻って10頁2~6行め、

‥‥。さらに石段をのぼると、/右手に谷合弥七らの八王子駅糸商が明治十三年に建てた高さ一八五・/〇センチ、幅一四〇・〇センチほどの「築礎碑」がある。この碑には、/明治七年に東京花川戸から道了尊を祀った経緯が書かれており、境内/では最も貴重な碑である。

とある築礎碑については、42頁〔58頁〕上段1~3行めにも「‥‥。石/段の下方右手に建つ築礎碑は明治十三年(一八八〇)に「八王子驛糸商」が建/てたもので、道了堂を祀った経緯を記している。‥‥」とあり、では57頁〔73頁〕下段13行め、1~3段めに「|38①|道了堂跡     |鑓水四一一   |」とあって1段めは「No.」で「38」が「沿道地図中に記入」されている、道了堂に与えられた番号、2段めは「名称」、3段め「所在地」で、4段め「備考」は1行17字で、16行めまで「明治六年、渡辺大淳と生糸商人等、東/京花川戸から堂宇を移し、永泉寺別院/とする。昭和三十八年廃寺。平成二年/大塚山公園となる。」とある*2のに続いて、17行め「 ②|築礎碑      |  同     |」18行めの3段めに下詰めで「道了堂跡」とあり、4段めには17~19行め「道了堂移築の経緯を記す。明治十三年、/谷合弥七など八王子駅糸商が建立。多/数の名前を記す。」とある。
 141頁6~9行め、

‥‥。石段の途中の左にあ/る築礎碑は、一八八〇年(明治一三年)に「八王子駅糸商」が立てたものです。こ/れまで述べてきたような、道了堂が建てられるまでの成りゆきが記されていて、大/切な碑です。‥‥


「これまで」と云うのは「絹の道」碑の紹介に続いて、4月26日付(45)にその前半を引いた、道了堂の歴史が述べてあったからである。
 築礎碑の銘文については、鮮明な写真をブログに上げている人がいるので、それを参考にして当ブログに翻刻紹介するつもりである。(以下続稿)

*1:ルビ「むなふだ」。

*2:6月23日付(84)に見たように「三 道筋の確定と現状」では廃寺になった経緯はもちろん、時期も暈かしていたので、昭和38年(1963)廃寺、と云うのはここにしか記載されていない。