瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(130)

・村下要助『生きている八王子地方の歴史』(6)
 昨日 HN「ご〜ご〜ひでりん」のブログ「古墳なう」に触れたのには理由がある。
 道了堂は「大塚山」と云う山の頂上にあった。今、この「大塚」の「塚」を「古墳」の意に解する者はいない。しかし各地に「大塚山古墳」があるように、やはり字義通りに解すれば大きな古墳(塚)の山、と云うことになるはずである。そして村下氏独り「大塚山は南関東一の大古墳」の項にて、これを大古墳(!)と断定しているのである。
 ブログ「古墳なう」では、次の項「由木大塚は、わが国最大の底部幅を持つ円墳」に村下氏が取り上げている八王子市大塚の「大塚古墳」と「大塚西古墳」について、[由木地区要図]に示される位置を参考に、2019/08/05「「日向古墳」」と 2019/08/10「「大塚周辺に古墳はあったのか」」の2つの記事に検証している。もちろん、どちらも古墳らしい地形と云うことで、古墳とは見ていない。八王子市も、これらを古墳としていないようだ。
 そうすると鑓水の「大塚山古墳」は、本書の記述を見ていたはずだのに取り上げもしていないことになる。いや、――念のため、HN「ご〜ご〜ひでりん」作成の Google マップ「古墳なう」を覗いて見た。すると「道了堂跡」と重ねるように前方後円墳のマークが記載され、クリックすると「八王子市 大塚山公園 前方後円墳だったらどうしよう」との説明が表示された。一応村下氏の指摘には配慮しつつ、しかし検証するまでもない、と云うことなのであろう。
 しかし、村下氏は次の如くに断定している。「大塚山は南関東一の大古墳」の本文を抜いて置こう。24頁5~15行め、

 突然大*1かい話になるが、由木鑓水の大塚山古墳は、明治八年初め、道了堂などに荒されはしたが、/底部長さ約百四十㍍もあり、知るところでは、南関東第一位になる見事な前方後円墳だった。後期古/墳に見られるように、自然の山を存分に使い、さらに盛土したのはあっぱれである。
 八王子横山地区から川崎地区までを、昔は多摩の横山といっていた。『万葉集』などに出ている名/前だ。この横山丘陵で一番高い所は、昔からここである。なんでいままでこの大古墳を取り上げなか/ったか。鑓水の小泉栄一氏宅にある大塚山道了堂の配置図に、明治二十六年写しとして、古墳の書入/れがあるのが、せめてものなぐさめとなる。上部および後円部の大事な所が、かなりあらされてはい/るが、専門家でなくてもすぐ大古墳とわかるであろう。名前からいってもこの山は大古墳なのであ/る。いま、八世紀くらいにその古墳の回りに穴を開けて、死体を入れたとみえる横穴古墳が前方部四/基と、東わきの部分に二基見ることができる。土が少しくずれ落ちてはいるが、興味を持たれる人は/見ていただきたい。【24】


 この横穴が現存しているのか、横穴古墳として調査されたことがあるのか、どうやらなさそうだけれども、村下氏は25頁10~11行めでも「‥‥。大塚山の八世紀頃とみる横穴古墳/は、調査されないから世に出ないものの、‥‥」と確信している様子である。
 明治26年(1893)の石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」にある「古墳」との記載に注目したらしい書物は、他に2022年3月31日付(025)に取り上げた十菱駿武『多摩の歴史遺産を歩く』くらいしか、私は気付いていない。しかし十菱氏は「近世のものと思われる大塚があります。」と述べていて、そんなに古いものとは見ていないようだ。ただ、十菱氏は具体的な記述をしておらず、他に注意した人もいないのでこの「近世のものと思われる大塚」が何を指しているのか、どうも良く分らない。「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」については2022年10月13日付(105)からしばらくふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』に掲載されるものを参照しつつ検討して見たが、そもそも[古墳]の文字は道了堂の境内にあって大塚山全体を指しているとは見えない。村下氏が25頁左上に掲出している写真「鑓水大塚山前方後円墳(底部長144m)」は確かに前方後円墳らしく見えなくもない。地形図を見ても、何となく前方後円墳みたいに見えなくもない。しかしこうなると目のように見える2つの点もしくは筋と、口のように見える横筋もしくは点があれば岩肌に顔があるように見えなくもない心霊写真と同じ理屈になってしまうだろう。「専門家でなくてもすぐ大古墳とわかる」としながら48頁6行め、村下氏だけが古墳と見做している他の場所と「合せて大塚山の前方後円墳も私だけである。」と、専門家が全くこれらを古墳と見ていないことは認めているのであるが。
 ただ、ここに塚がなかったかと云うと塚はあったらしい。そのことを述べた文献を紹介するのはかなりの手間になるので、今は予告のみに止めて置く。しかしそれが仮に古墳だったとしても底部の長さが144mもある前方後円墳ではないらしいことだけは、今ここで断って置こう。
 村下氏は25頁1~6行め、次のように続けている。

 道了堂の子孫の方で、町田にお住いの浅井さんからきくのに、いま市水道の水源となっているタン/クの所にも、踊り場を持つ二段構築に作った、底部幅三十㍍くらいの円墳があったという。文化財を/惜しいことをするものだ。また、この二つの南に小さいが前方後円墳が残る。七世紀末とみられる。
 山の中によく残った大塚山は、六世紀末か、七世紀初/めの頃の出来とみえるし、姿のない円墳は、陪塚であっ/たろう。


 この「浅井さん」は殺害された堂守浅井としの娘であろう。2022年4月13日付(032)に、昭和53年(1978)に宗教法人曹洞宗道了院復興仮事務局が「八王子鑓水道了堂復興趣意書」を纏めていることに触れ、その主管を務めている人物が町田市の行政書士であることに注意したのだったが、それは土地の所有者である遺族が当時町田に住んでいたからだと分かった。村下氏はその遺族に親しく話を聞いているのだけれども、残念ながら道了堂の歴史については、次回見るように全くと云って良いくらい何の情報もない。
 現在タンク(東京都水道局鑓水給水所)のある場所については、2022年10月7日付(103)に引いた山田桂子「「絹の道」をゆく/――東京・八王子市鑓水にて――」に、明治初年以降「蚕影神社」と云う神社があったと書いているが、これも詳しくは(山田氏の情報源も含め)分らない。村下氏が南にあるとする*2前方後円墳は現存するのであろうか。これもやはり他に注意した人がいないらしく、本書にも目配りしているはずのHN「ご〜ご〜ひでりん」による Google マップ「古墳なう」にも、何の記載もないのである。
 村下氏は「いろいろな話」でもこの自説を繰り返していて、252頁3~4行め「‥‥。一口に日の当るという言葉がある。こ/の場合、鑓水の人たちをいう。多摩の横山の一番高い所へ大塚山古墳を作ったのは、前に書いた。‥/‥」、262頁2~3行め「‥‥。大体道了堂のある大塚山が、大古墳であると気がつかないくらいであるから、‥‥」と述べ、5~8行め、

‥‥。大塚山古墳へ商売がら鉄筋棒五㍍材13ミリ鉄筋を十本持っ/て行き、あちこち突きさした。(石棺部分を確かめるために)一人で二・五㍍くらいまで土中にはい/る。あとは大ハンマで楽々と五㍍材が消える。しかしもう抜けない。何時の時代かだれかが調査をす/れば(たとえば五十五年後)この鉄棒はなんだろうとさわぐであろう。‥‥

と思い付きで10本の鉄棒を土中に打ち込み、それなりに見当を付けた場所に打ち込んだだろうに何の反応もなく、そのまま打ち込むしかなかった、と云う訳だが、それでそもそも大古墳と云う見立て自体が見当外れかも知れないと思うこともなく「五十五年後」には「だれかが調査をす」るものと期待している。私のような小心者には誠に敬服の他はない。「二十日」でこれだけの本が書けてしまうのも道理である。
 ここは是非とも HN「ご〜ご〜ひでりん」氏に現地踏査をお願いしたいところなのだけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「で 」。

*2:2024年1月24日追記】誤読からここに「2基の」としていたのを削除。