瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(88)石造物③

・道了堂の石造物(3)
 昨日の続きで、石段を登り切った平地に遺されている石造物について。ここではが3つ纏めて取り上げているので、から見て置こう。141頁11行め~142頁12行め、

 石段をあがって、もとの境内だった平地に出ると、本堂跡にむかって左手に「永/代御祈祷料*1」と刻まれた碑、延命児育*2地蔵、石灯籠*3二基が並んで立っています。永/代御祈祷料に碑には、表に「永代御祈祷料 金六拾五円 北多摩郡中神村講中」と/【141】あり、裏には、「明治二二年(一八八九年)再建」とあります。中神村は、いまは/昭島市になっています。
 延命児育地蔵は、長生きの願いをかなえ、子供の健やかな成長を見守ってくれる/お地蔵さまで、一八八一年(明治一四年)に造られました。造った人々の名には、/浅井貞心・渡辺大淳の二人のほか、東京の呉服町・花川戸、それに多摩の八王子・/中神・五日市の人々が名を連ねています。中神は、さきほどの村、五日市は、いま/は、あきる野市になっています。浅井貞心という人は、渡辺大淳とともに、道了堂/の創建にたずさわった人です。石灯籠は、これも浅井貞心・渡辺大淳によって、一/八九〇年(明治二三年)に建てられました。打コシの人の名なども見られます。打/コシは、打越という地名で、片倉のとなりにある町です。
 この地蔵尊と石灯籠を造ったのは、相州煤ヶ谷*4(いまの神奈川県愛甲郡清川村)/の細野弥市という石工*5だったことも刻まれています。


 は10頁7行め~11頁6行め、

 石段をのぼりきると左手に、基礎もふくめて約一メートル、幅五九・/〇センチの碑が建っているが、これは二つに折れてしまっている。上/部が落葉にうもれかけている。何とか欠けたのを合わせて読んでみる/と、正面に「永代御祈禱料 金六拾五圓 北多摩郡中神村講中」、裏/面に「明治廿二丑年六月再建」とあった。
 ぐっと見上げるような石灯籠は明治廿三年八月のもので、一対ある。/寄進者の中には「打コシ 福田栄造 打コシ 青木新左エ門」などと/【10】もある。この灯籠と亀趺の延命児育地蔵(明治十四年)をつくった石/工は、相州煤ヶ谷(神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷)の細野というもの/である。厚木市七沢の山中から産出する七沢石を用いる石工たちが、/昭和十四年ころには七沢・煤ヶ谷・伊勢原市には五二名もいた。その/なかに、細野長平という者もいるので、堂了堂の石造物をつくった方/の子孫であろう。

とある。10頁上欄に「道了堂の石灯籠」と題する写真があるが、参道の左右に対置されるのが普通なのに何故か石垣の上に並んでいる。その石垣に石地蔵の立像が凭せ掛けてあるのだが、佐藤氏はこれには触れていない。実はこの石垣上の石灯籠と、石垣に立て掛けられた石地蔵の立像の写真は複数あるので、別に検討しようと思っている。
 北多摩郡中神村は現在の昭島市、集落のあった辺りは現在の中神町に当たる。この碑については、3月25日付(19)に指田徳司撮影の写真について検討した。指田氏は、昭和45年(1970)頃の撮影らしい白黒写真に上半分が欠失したもの、そして平成22年(2010)に修復されたものをカラーで撮影している。
 延命児育地蔵(座像の石地蔵)も指田氏が白黒とカラーでそれぞれ同じ時に撮影している。白黒の方では稲川淳二が語っているのと同じ状態で自分の首を子供とともに自分の胸に抱いていたが、その後修復された。しかし、「リアルライブ」の山口敏太郎事務所(に拠るらしい記事)2012年01月21日「因縁の地の生首地蔵「道了堂」」に拠ると、東日本大震災の折に倒壊してしまい、1年以上そのままになっていたようだ。その後修復はなされたものの「延命児育地蔵」の銘のある石柱の上に地蔵本体を載せないまま、石柱の脇に亀趺と蓮台に載せた形で置かれているようだ。
 なお、が特に「打コシ」に注目しているのは打越歴史研究会に依頼されての執筆だからで、73頁に弘化二年(1845)の打越弁財天奥宮の石祠に「中谷(戸)」の「青木新左衛門、他一名」の名が刻まれている、とある。道了堂の石灯籠の青木新左衛門と同一人物か、それとも親子であろうか。
 には42頁〔58頁〕上段3~5行め、

‥‥。本堂跡に向って左手の延命児/育地蔵は明治十四年(一八八一)、石燈籠二基は明治二十三年(一八九〇)に/造られている。‥‥

とあり、には57頁〔73頁〕下段20行め「| ③|奉献燈」20~21行め、3段めは前回見た②に同じ、4段め「志願主は浅井貞心、渡辺大淳。明治廿/三年建立。」22行め「| ④|延命地蔵尊」3段めは②③に同じ、4段め22~24行め「志願主は浅井貞心、渡辺大淳。明治十/四年造立。発起人に東京呉服町、花川/戸、八王子、中神、五日市の人がいる。」とあり、③に取り上げられている道了堂跡の石造物は、これで全てである。(以下続稿)

*1:ルビ「えい/たいごきとうりょう」。

*2:ルビ「えんめいこそだて。」

*3:ルビ「いしとうろう」。

*4:ルビ「す す が や」。

*5:ルビ「い し く」。