瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(7)

・郷土叢書2『続多摩』(5)
 7月5日付(5)の続き。
扉の用紙、初刷は灰色、重刷は横縞の透かしの入った明るい灰色。上部中央やや左寄りにカバー表紙と同じ標題を黒で縦に組み、下部中央やや左寄りに明朝体縦組みで行間を詰めて「米光秀雄/滝沢 博/浅井徳正」。
 アート紙は口絵は『多摩』と同じく白黒写真だが、こちらは両面印刷。ほぼ全面が右を上にした横長の写真で下に僅かに余白を取ってそこに横組み・中央揃えでキャプション、表は「松姫峠 甲州と多摩を結ぶ新しい峠路 武田氏滅亡の際,八王子に逃がれた信玄の息女松姫にちなむ」裏は「黒川廃坑跡 「黒川千軒」の名で殷賑を極めた金山も,今は廃坑と伝説にその繁栄をしのぶのみである」とある。裏は白紙。「目  次」は2頁(頁付なし)で『多摩』と同じ体裁だが「あとがき」に頁が入っていないのが異なる。
 1頁(頁付なし)は1章めの扉で左上にやや大きく明朝体縦組みで「武蔵の国と多磨郡」とある。細目は将来各章をより詳しく見る機会があることとして今回は割愛する。2~33頁本文、末尾(33頁9行め)に下寄せでやや小さく「(米 光 秀 雄)  」と、各章に執筆者を入れているのが『多摩』と異なる。
 35頁(頁付なし)2章め「多 摩 の 古 戦 場」の扉。36~83頁本文。末尾(83頁7行め)に下寄せでやや小さく「(米 光 秀 雄)  」。
 85頁(頁付なし)3章め「伝 説 を 追 っ て」の扉。86~111頁、末尾(111頁14行め)に下寄せでやや小さく「(米 光 秀 雄)  」。
 115頁(頁付なし)4章め「多 摩 ・ 古 美 術 散 歩/――仏蹟めぐり覚書きより――」の扉、副題は「古」の脇から。目次1頁め15行めには副題はない。114~201頁本文、202~206頁「補遺多摩地方古美術連仏表」、末尾(206頁15行め)に下寄せでやや小さく「(浅 井 徳 正)  」。
 207頁(頁付なし)5章め「多  摩  川/――川 の 人 生――」の扉、副題は「摩」字の下左から。208~262頁本文、末尾(262頁11行め)に下寄せでやや小さく「(滝 沢   博)  」。
 263~264頁「あ  と  が  き」は、最後の264頁16行め、2字下げでやや小さく「昭和四十五年盛夏」下寄せで「執筆者代表 米 光 秀 雄」とある。まづ「ここ数年」の「「多摩」の変貌ぶり」から「このままでよいのだろうか」と『多摩』を出版したところ反響が大きかったこと、しかし「多摩」の「広さ」と「深さ」を見なおすと、264頁1~9行め、

‥‥、あとからあとからと湧きだして、到底、小冊子には書きつくせない。前篇に載せきれな/かった原稿を筐底に秘めて、いたずらに髀内の嘆をかこっていたところ、武蔵書房から『続多/摩』をだしてはとの声があり、現地調査をし直し、稿を書き改めてここに『続多摩』として
  「武蔵国と多磨郡」
  「多摩の古戦場」 }…………米光
  「伝説を追って」
  「多摩川」………………………滝沢
  「多摩・古美術散歩」…………浅井
が、それぞれ分担した。

とある。「脾内の嘆」は「脾(髀)肉の嘆」だが重刷でも訂正されていない。「 }」は3行分の幅があるが再現出来なかった。
 それはともかく、まだ続刊が可能だったように思われるのだが残念ながら2冊で終わってしまった。武蔵書房はその後、OPACで検索した限りでは昭和55年(1980)まで10年余りの出版活動の末、廃業したらしい。『多摩』の浅井徳正「あとがき」に「若き業主」と紹介されていた発行者の桜澤一昭は、その後も羽村郷土研究会「会報」や「羽村市郷土博物館紀要」その他に、中里介山羽村西多摩郡地方に関する著述を発表し、中里介山については1冊に纏めている。

 未見だが、昭和56年(1981)10月20日発行の「多摩郷土研究」第55号「浅井徳正先生追悼号」の細目を検索するに、『多摩』『続多摩』の共著者、米光秀雄は「今は遠野物語」、滝沢博は「まぼろしの名著『古稀おろし』」そして版元の桜沢一昭は「浅井徳正大人追憶」を寄せている。これを見れば『多摩』『続多摩』について、何か記述があるだろうか。武蔵書房について纏まった回想があれば読みたいところなのだけれども。(以下続稿)