瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小泉二三『思い出の鑓水』(4)

・地方文化叢書1『思い出の鑓水』(4)筆者③
 鑓水尋常小学校のことは、15頁「あら屋敷」の中左の説明文に、2~10行め、

‥‥。元御諏/訪様の跡地は古い小学校のあった/ところで私たちが学んだ学校であ/り二階の下の階段に牢屋があり悪/いことをすると夕方まで入れられ/た真暗な部屋があった。優等生に/なるとその当時の金で三銭とか五/銭とか袋に入れて呉れた面白い習/慣があった。‥‥

と回想されている。位置については10月15日付「道了堂(107)」に確認した。
 結局、由木尋常高等小学校に統合され、西分教場になり、戦後独立して由木西小学校になるのだが、この辺りの経緯は『ふるさと板木』の「板木谷戸年表」では分からない。『由木西小百年史』や小泉栄一「春秋 鑓水学校」にて確認したいと思っている。
 町田市立小山小学校は昭和51年(1976)に現在地に移転するまでは、片所集落の福生寺の南にあった。跡地は町田市小山市民センター・小山なかよしスポーツ広場になっている。
 著者が小学校卒業後に進学した東京府立織染学校は現在の東京都八王子市明神町3丁目19番の西寄りにあった。甲武鉄道開業時の八王子駅の跡地で、戦後、東京都立繊維工業試験場となっていた。東京府立織染学校や東京都立繊維工業試験場については、三井住友信託銀行グループ 三井住友トラスト不動産」HPの「写真でひもとく街のなりたち/このまちアーカイブス」「八王子」の「2:「八王子織物」と製糸業の発展」に詳しい。
 10月19日付(2)に引いた35頁「小歴」にあったように著者は5年間、東京府立織染学校に通っていた。原文は明日紹介することにするが、徒歩で通っていた。鑓水の集落からは道了堂を経て片倉の釜貫谷戸を下り、そのまま浜街道を八王子まで進むよりも、湯殿川を下って北野の七日市場集落(八王子市北野町の横浜線の西側に突出した辺り)を経て、八王子駅の東側で横浜線中央本線を潜って明神町に出たのではないかと思う。
 なお本書に関しては述べたいことが多々あるのだが、手許に置いてゆっくり眺めることが出来ないのでここで一旦切り上げることにする。最後に「あとがき」から小学校に関連する記述を抜いて置こう。34頁下段1~12行め、

 たゞあの丘の上の小学校で机を並べていたづらばかり/していた友達、絵のうまかった英一さん、歌が上手だっ/た仲ちゃん、今まで生きていれば俳句の大家にはなって/いたであろう房ちゃん、太い肝玉で満洲浪人であった三/好さん、いつも居るかいないかわからない程おとなしか/った義隆さん、そして美しかった絹ちゃん、この人たち/はもうふる里の土にかえってしまった。床屋のお梅さん/と、お宮の下の利ちゃんと、北の街道の芳子さんとがふ/る里の土にひそかに落ちついた生活をしているだけにな/ってしまった。親せきの、私にとっては永遠の人であり/いとしい妹であったSさんは今何を思い何を考へている/のであろうか。


 ここに列挙される人々について、小泉栄一及びその母と妹の著述などを細かく見て行けば、或いは何らかの記述が得られるかと思って、メモして置く。『ふるさと板木』には、著者と同年或いは前後する年齢の人は出ていない。もちろん板木谷戸の人でなければ『ふるさと板木』には出ていないのだけれども。(以下続稿)