瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

鑓水の地名(3)

 「槍の血を洗った水」から鑓水と云う地名が付いた、と云う説は既に定着しつつあるようです。
 その元になったと思われる、「白水」もしくは「とぎ水」或いは「槍研ぎ水」の伝説(?)を、私は小倉英明『私たちの郷土由木村』の他にも3種の文献で見ておりまして、合計で4種と云うことになりますけれども、初め、次回取り上げる文献を除く『私たちの郷土由木村』等3種の文献でこの伝説を見付けたときには、鑓水の由来を説明するために現存しない、しかしかつて大塚山にあったとされる、従ってその存在自体が伝説的な泉を持ち出して、これに槍を結び付けて「槍・水」だ、と云う伝説をでっち上げた(!)もののように感じました。
 今、そんな泉はない訳ですから、この地名由来伝説のために、何とも都合良く、ありもしないものが持ち出されたように感じたのです。もちろん、伝説には現存しない、昔この辺りにあった池とか寺とか城とか長者とか、そう云ったものがよく登場するものですけれども、実際にそんなに古い、合戦にまつわる伝説があるならば、それこそ『新編武蔵風土記稿』や『皇国地誌』にこの説が持ち出されていて良さそうなものです。しかしこれら19世紀に編纂された地誌に載っていない「戦国時代」の話が、20世紀になって初めて文献に登場して来るのは、これが実はそんなに古い伝説ではないことを物語っているのではないか、と思ったのです。
 ところで、10月23日付(1)に引いた、2004年の2ch(5ch)の書き込みでは国道16号線に柚木街道が突き当たる辺りにある池が「槍・水」の現場らしいとされておりました。しかしながらこの池は、東京環状線(国道16号線)の拡幅に伴って昭和30年代に出来たらしいのです。
 この池の写真は、4月20日付「道了堂(39)」に見たように馬場喜信『流域紀行八王子』13頁に「大栗川の水源にある池、樹木が密生していて池のほとりに出ることもできない」とのキャプションを附して掲載されておりました。今回、その本文の方も併せて見て置きましょう。12~13頁「⑥ 大栗川(上)」の冒頭、2~8行めに、

 国道16号が御殿峠をこえて相原への下りにかかると、右手に小さな池が見える。道路に面する/以外の三方は深い緑に包まれており、早朝など車の往来がとだえた時には、山の湖水のほとりに/立つような心地がする。この池が大栗川の水源である。
 池の向かいの稜線は多摩丘陵と御殿峠を結ぶ尾根で、明治中ごろまでの峠みちはこの上を通っ/ていた。南には町田市との堺をなる丘陵の主稜線がたわんでいる。国道は、もういちどわずかな/坂を登り返してこの丘を越え、はじめて相原に出る。
 大栗川はここから鑓水・柚木・堀之内・大塚など旧由木村の集落を縫って東流しつつ‥‥

とあって、初出は「東京新聞ショッパー」八王子・日野版、昭和53年(1978)10月20日発行号ですが、当時は国道16号線から水面が見通せていたようです。しかし既に「池のほとりに出ることもできない」ほど「密生してい」た「樹木」が更に成長した平成22年(2010)8月の Google ストリートビューでは、国道16号線からは見通せなくなっていました。それだけでなく、平成20年(2008)5月27日国土地理院撮影の航空写真(CKT20084-C15B-11)では土砂の堆積が進んだらしく、半分湿地帯のようになっているように見えます。岸も国道から随分遠ざかっており、その間に更に樹木が生い茂ったものだから、まるで見通せなくなっていたのです。
 それはともかく、馬場氏の昭和53年(1978)時点での記述に戻って、私が少々驚きを禁じ得ないのは、――今、八王子バイパスなどが通じて地形が分かりにくくなっておりますが、鑓水の中心部から西南西に切れ込んだ大芦谷戸東京環状線(国道16号線)を越えた辺りで約90度北に折れて約900m程続いておりまして、その源流は御殿峠なのです。ところが、明治10年代の地形図も参照して、御殿峠越えのルートが現在のように大芦谷戸の上流部に下らずに尾根筋を辿っていたことを把握していた馬場氏が、この、東京環状線(国道16号線)を越えたところにあった池を、大栗川の水源地と見做してしまったことなのです*1明治10年代の地形図にはもちろん、戦後まもなく改修された地形図まで、ここに池の記載などなかったことに馬場氏が気付かなかったはずはないと思うのです*2。しかしながら、13頁の写真を見ても、如何にも自然な池に見えます。実際には出来てから20年程の水溜り(堰止湖)なのですが、それが余りにも自然に違和感なく存在していると、馬場氏のような、専門家と云って良いような人でも判断を誤ってしまうもののようです。そして、この自然さが、終には「槍・水」の地名伝説まで引き寄せてしまうことになったのではないでしょうか*3
 それはともかく、伝説には、元々の伝承地が失われてしまった後で、近くの似たような場所に伝承地が移動する、と云ったことが間々あります。この場合、元々の伝承地であった「道了堂の泉」が存在しない、となったときに、この池がそれらしい、と思った人がいて、そんな話になりかけたのでしょう。尤も、2ch(5ch)にこの書き込みがあった頃には池は既に埋まり掛けていて、書き込みをした人物もこの池を見たことがないらしく、そして平成25年(2013)頃には埋め立てられてしまいましたから、今後この、「大栗川の水源」の池が「槍・水」の発祥の地であった、と云う風に発展する見込みは、なさそうですけれども。
 とにかく、伝説を扱う際には、近年も横行し続けている、――伝説は地元の住民が語り継いで来た、土地の暮らしに根差した、実感を伴った間違いのないもので、歴史ではなくても地元の住民にとっては厳然たる事実なのだ、みたいに素直に思い込んでいるらしい伝説集だけ見て、その受け売りをするようではいけないので、伝説集も戦後・戦前、或いはそれ以前にまで遡って揃える必要がありますし、さらに近世・近代の地誌、地形図・地図の類まで参照する必要があるのです。しかしながら、そういう手続きを踏まず、勝手に辻褄を合わせたり想像を加えたりする人が後を絶たないものだから、色々と厄介なことになってしまうのです。まぁだから私はまづ文献に依拠し、その成立の事情と刊行時期に留意しておるのです。(以下続稿)

*1:『八王子事典』にも同様の記述がある。

*2:いえ、谷底に出来た池なので、水が湧いていた可能性は十分考えられるのですけれども。

*3:念のため断って置きますが、馬場氏はこの池を「槍・水」に結び付けてはいません。