瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

清水成夫 編『八王子周辺の民話』(3)

・郷土資料シリーズ⑷『八王子周辺の民話』(3)跋①
 66~67頁上段に橋本義夫「跋」を見て置こう。66頁上段1~4行め、

 編者清水成夫氏は武相地方に知られた地方史家であ/る。今日まで四十余年、生活の三分二ほどの傾けるとい/う地方紙のマニヤ的な熱心家である。(同氏については/拙著『雲の碑』Ⅱ二四一―二四四頁を参照されたい)


 1行分空けて多摩丘陵の「谷*1」とともにあった民話が「谷*2」の開発とともに亡失の運命にあることを述べ、また1行分空けて下段2~9行め、

 数年前より都立八王子図書館は時代の変遷とともに亡/失の運命にある貴重な存在たる資料の保存につとめ、/『郷土資料シリーズ』として年々刊行を重ね、ここに第/四集『八王子周辺の民話』の企画となった。この地方で/は一部のある土地では既に民話を編した所もあるが、通/じての編著は無く、今回がはじめてである。
 編者清水氏はこの企画にうってつけであるし、幸にも/前々から長年蒐集につとめていた。


 この「前々から長年蒐集につとめていた」と云った辺りは、稀覯の文献からの引用があることからも察せられる。
 すなわち、【5】「原半左衛門と馬」の典拠として「清水庫之祐 編者『新著聞集』」とあるが、清水庫之祐(1894~1951.6)は2021年11月6日付「白石實三『武藏野から大東京へ』(1)」に見たように戦前の八王子市八日町の住人であり、元より寛延二年(1749)三月刊の説話集『新著聞集』の「編著」者ではない。
 この話は『新著聞集』四ノ十三裏2行め~四ノ十四表6行め、報仇篇第四ノ11「馬の筋骨をいためて神前に血を見る*3」を口語訳したものだが、清水庫之祐は八王子で刊行していた「商工日日新聞」に死去の直前まで「多摩の傳説」を連載していた、その1話なのである。もちろん版本ではなく『日本随筆大成』等の活字本に拠ったのであろう。この連載は子息の二代目清水庫之祐(1924生)が都立高校の校長退職後の昭和60年(1985)に1冊に纏めて刊行しているが、もちろん本書より後のことなので、清水成夫は連載時に切り抜いてスクラップしていたのを活用したのであろう。『多摩の傳説』の詳細については別に記事にする予定である。
 それはともかく、ここで橋本義夫「跋」に挙がっている「拙著『雲の碑』Ⅱ」の記述が思い合わされる。橋本義夫『雲の碑 地方史の人びと』(昭和四十一年六月十五日 印刷・昭和四十一年七月十五日 発行、定価二冊組・金千円、多摩文化研究会)は第一巻(4+2+3+111+3頁、印刷所 青少年技術指導所/八王子市大和田町)第二巻(273頁・印刷所 八王子印刷所/八王子市平岡町)の2冊から成る。第一巻巻頭の多摩文化研究会主幹鈴木龍二「序」(前付4頁)に拠ると「思いもかけぬ事故の連発」のため「印刷は延期に延期を重ねて」しまい、どんなトラブルなのだが詳しくは分からぬが「やむなく窮余の余りとは言へ小分冊に分けて上梓を急」いだ結果が、薄い第一冊と倍以上の頁の第二冊、前者は活版、後者は和文タイプ印刷と云う不体裁になったもののようである。但し表紙や扉など装幀は統一されている。
 さて、このⅡ241~244頁「清水成夫」に、やや詳しい清水氏の紹介がある。この文章は末尾(244頁2行め下詰め)に(六四・一一・一二)とある。241頁9~10行め「‥‥、父は八王子駅前の有名な肥料屋で、町/の有志だった清水保貴の次男、‥‥」とあり、242頁2~5行め、

 二商時代にコレクシヨンがはじまり、古銭、書画、切手、本 ・・・・・・・・・といつたものをた/めはじめたのだという。
 郷土史家とか、歴史道楽には、その出にいろいろなタイプがある。物識型、文学型、神主/坊主型、老人型、コレクシヨン型、等々、清水氏のは、コレクシヨン型らしい。

と評されているが、伝説類もその資料として早くから「コレクシヨン」されていたもののようである。
 最後の【64】【65】の日野市の2話は『武蔵野手帳』を典拠として挙げているが、これも清水庫之祐「多摩の傳説」と同じ頃のもので、武蔵野文化協会が昭和26年(1951)から翌年に掛けて12号刊行しているが、東京都立中央図書館は第2号・第3号・第4号を欠いており、揃いで所蔵しているのは東京都立大学図書館のみらしい。オークションサイトに「武蔵野手帳」第2号・第3号・第4号・第6号が1500円で出品されていたことがあり、その画像と説明に拠ると、「手帳」と称しているが〈發行兼/編 集〉武藏野文化協會の6段組の会報(26.5×19.5cm)のようだ。都立図書館が落札していたら揃うのだがどうなったろうか。それはともかく、彼此綜合するに、昭和26年(1951)7月に第1号、「昭和26年8月1日」に「第2號」、9月に第3号、「昭和26年10月1日」に「第4號」、「第6號」は最終頁左下の奥付の写真に拠ると「昭和二十六年十二月一日」発行で「定價十圓」、版元の所在地は「東京都武藏野市吉祥寺/自然文化園内」である。頁付は「― 20 ―」らしく見える。そして昭和27年(1952)1月に第7号、昭和27年12月12日に第12号が出ている。
 しかし、どうも清水成夫は、あちこちにアンテナを張り巡らせて数多く蒐めることには長けているものの、余り丁寧にコレクションするタイプではなかったようだ。前記「清水庫之祐 編者『新著聞集』」も「『新著聞集』」として置けば(伝説類の場合、直接拠った資料を省くような慣例があるから)問題なかったのを「清水庫之祐 編者」なる直接依拠した資料の情報を、中途半端に付け加えてしまっている。いや「清水庫之祐」の名を挙げているのはここだけだが、これ以外にも幾つか、その「多摩の傳説」から採った話があるらしいのである。詳細は清水庫之祐『多摩の傳説』について検討する際に報告することとしよう。――出典を示していない話が幾つもあるが、これらももちろん何らかの文献から引いたので、「多摩の傳説」のように隠れた典拠が多々存するはずである。かつ典拠をきちんと記録して置かなかったための記載漏れ、そしてそれを特に問題と思わず(当時の慣行からすれば当然と云っても良いようなことなのだけれども)そのまま載せたものらしいのである。(以下続稿)

*1:ルビ「やつ」。

*2:ルビ「やつ」。

*3:振仮名「むま・すじほね・しんぜん・ち」。目録では「馬の筋骨を殤て神前に血を見る」振仮名「すじほね・いため・ち・み」。