瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』(4)

・巻一(1)まえがき
 扉の裏から2段組の「目  次」が4頁(頁付なし)ある。
 その次の見開き、2~3頁が「ま  え  が  き」である。――これだと「目次」の4頁めが1頁と云う勘定になるが、扉(頁付なし)が1頁と云うことになろうか。2行めから抜いて置こう。

 私は,八王子に生まれ育ってきたもので、若い頃より村々の古老方と交り/又文書で珍らしい事柄を少しづつ伝え聞いた儘、書き残したものを、今回ま/とめるに当り、永い間集めたので、市町村合併の町名変更等に依り読み違い/重復、誤記等があると思いますが御諒承して下さい。


 各話の末尾に『八王子周辺の民話』と同じように典拠が表示されているのだが、これがない話も多い。「若い頃より‥‥永い間集めた」ため、何に拠って知った話なのか、分からなくなってしまった話が多いのか、とも思ったのだが、近年の文献から採ったものでも記載のないものが多々あって、どうも清水氏はこう云った辺りに頓着しない傾向があったようである。
 2~3段落め(6~9行め)を見て置こう。2段落めが字下げしていないのは原文のママ。

歴史と違い伝説なので馬鹿なことと思いになるような箇所もあるとおもいま/すが、あくまで「八王子昔ばなし」としてお読みください。
 また、歴史を肯定否定するものもありますが、あくまで伝説としておよみ/になって判断して下さるなら誠に幸いです。


 同趣旨の繰り返しになっている。
 4段落め(10行め~3頁2行め)、

 八王子昔ばなし(八王子)旧市、小宮・横山・加住・浅川を巻一として出/【2】版、恩方・元八王子・由井・由木を巻二として、早速に出版する予定です。/是非共つづいてご購読をお願いいたします。

とあるが巻二が刊行されたのは3年後である。定価などは入っていないが「ご購読」とあるので、配り本ではなく(配ったものも少なくなかったろうが)市内の書店などで販売していたようである。
 最後の段落は出版の関係者への謝辞、1行分空けて5行め2字下げで「昭 和 五 二 年 春」、さらに1行空けて下寄せで「(清  水  成  夫) /号  睦  敬  」とある。
 清水氏の号については、11月18日付「清水成夫 編『八王子周辺の民話』(3)」に参照した橋本義夫「清水成夫」(『雲の碑 地方史の人びとⅡ』所収)242頁13行め~243頁1行めに、

 本名は「成夫」と書く。スーパーマン水野成夫と同じ名だ。歴史の方では「睦元」と自/書している。私は「ムツモト」とよむのだろうと思つていたら、或る時、日野の古谷郷次郎/老が「ボクゲン」といつていた。氏から史号のことは一言もきいていないが、郷土史の元締/【242】「稲村担元」あたりから出ているのではないか?日本仏教史上の名僧、道元、祖元、隠元と/いつた人物になぞられたのかも知れない。

とある。実業家の水野成夫(1899.11.13~1972.5.4)と同じ読み方だと云う訳だが、私は水野氏についての知識がなく「スーパーマン」と称されていた理由も分からない。古谷郷次郎は戦前の日野尋常高等小学校校長で終戦時の日野町長だった古谷剛次郎だろう。稲村担元は曹洞宗の僧侶で、東京と埼玉県の「郷土史の元締」だった稲村坦元(1893.4.19~1988.4.17)、全て当時現存の人物である。
 しかしながら、本書では「睦敬」と号しており、OPAC その他で検索しても清水睦敬しかヒットしないのである。すなわち、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る、武蔵野文化協会の機関誌「武蔵野」への寄稿を見るに、いづれも「清水睦敬」である。
・「峻翁令山法光圓融禪師の開山の広園略史」「武蔵野」第四十九巻第一・二号(新春合併号)19~32頁(昭和四十五年一月十五日発行・48頁)
・「横山党の居館について」「武蔵野」第五十二巻第一号(通巻)第二八四号22~29頁(昭和四十八年四月十五日発行・63頁)
・「廻国雑記標註を著した/関岡野州良」「武蔵野」第五十六巻第二号「通巻第二九四号」28頁(昭和五十三年五月三十日発行・43頁)
 それから「たましん地域文化財団/デジタルアーカイブ」で閲覧出来る、多摩中央信用金庫(現・多摩信用金庫)が刊行していた「多摩のあゆみ」への寄稿も、やはり全て「清水睦敬」である。
・「多摩の古道雑感」「多摩のあゆみ」第五号28~29頁(昭和五十一年十一月十五日発行・80頁)
・「〈中 世 多 摩/最大の悲劇〉 横山残党掃蕩作戦」「多摩のあゆみ」第十七号30~31頁(昭和五十四年十一月十五日発行・88頁)
・「「多摩の歴史研究者たち」/―大 正 編―」「多摩のあゆみ」第四十一号135~137頁(昭和六十年十一月十五日印刷・発行・268頁)
・「後北条氏の多摩進出と在地領主達の興亡」「多摩のあゆみ」第五十号190~202頁(昭和六十三年二月十五日印刷 発行・208頁)
 第五十号202頁左下に「しみず ぼくけい」との読みが、初めて示される。
 そうすると『雲の碑』には誤植も多いし、橋本氏は何らかの勘違いで「睦元」と思い込んでいたのではないか、との疑いも覚えたのだけれども、八王子撚糸産業組合 編集『繊維産業史資料八王子撚糸業史稿』(昭和三十六年九月二十日印刷・昭和三十六年十月 一日発行・多摩文化研究会・248頁)115頁11行めに「‥/‥。これらについては別項、清水睦元氏、橋本義夫氏の研究より、‥‥」とあるから、昭和30年代までは「睦元」と号していたもののようである。(以下続稿)