瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(113)

 昨日の記事は郷内氏の説明する「ノート」の性質の確認だけに終わってしまい、道了堂跡の記述に及びませんでした。或いは『拝み屋念珠怪談』の方を記事の題にすべきかとも思ったのですが、通読する余裕のないまま『奈落の女』は返却してしまったし、『緋色の女』の期限も迫っております。愛読者も多いらしい怪談作家の、合せて600頁近いシリーズの一部を流し読みしただけで、見出しに使うのも随分烏滸がましく思えたので、私としては、飽くまでも道了堂跡についての記述を拾う目的で、これを掲載している書物の性質も一通り確認して置きたいだけなのだと云うつもりで、題は変えないで置くこととします。
・郷内心瞳『拝み屋念珠怪談』(4)
 さて、道了堂跡での体験談が語られているのは『奈落の女』224~225頁「道了堂跡【対面取材 二〇一七年十月五日 木曜日】」です。
 例によって、取材相手からの紹介で、224頁2行め「従弟の遊佐さん*1」に裕木真希乃は話を聞きます。
 3行め「八年ほど前の夏場に体験した」と云うその話は、4行め「当時勤めていたバイト先の仲間たちに誘われ、八王子にある道了堂*2跡へ/肝試しに行」ったときのことだと云うのですから、2009年頃の夏と云う見当になります。
 私が気になるのは、まづ6~7行め、

 その名のとおり、昔はお堂が立っていた場所なのだが、お堂は昭和時代の終わり頃に/不審火で全焼し、以後は境内に土台が残るのみとなっている。

と説明していることです。
 道了堂の解体が昭和61年(1986)秋頃であることは、当ブログで資料を提示して説明して来ました。まだ1つ、図版を掲出するかどうか迷って取り上げていない決定的な資料があります。――許可を申請して、通るかも知れませんが、まぁこんな過疎ブログの酔狂に忙しい公的機関を煩わせるのも気が引けるし、かと云って勝手に掲載するのもどうかと思われますし、出来れば修正なしで掲載したいのですが、許諾を得ようとしてボカすように云われたらただでさえ鮮明と言い難い写真がいよいよ不鮮明になってしまいますし、掲載したらコピペされて拡散しかねず、写っている人とその関係者に(知っている人でないと誰だかわ分らない写り方ですけれども)迷惑、と云うか不快感を与えるかも知れません。いや、拡散などしないかも知れないけれども私のためにその可能性が生じる訳で、いろいろ躊躇しているうち彼此半年ほどそのままにしてしまいました。尤も、要点は既に Twitter でも紹介済みです。
 ところが昭和58年(1983)に解体されたとする説が平成3年(1991)の『八王子事典』を嚆矢として広まっていて、その原因が火事であるとする説――不審火を切っ掛けとして八王子市により解体された、とする説が現在、恐らく Wikipedia「道了堂跡」項の記述から広まっているのです。私は、火事はなかったと思っているのですけれども、今のところ私の tweet は抑止力を発揮していない模様。Wikipedia の方は5月15日に私が[要出典]タグを付けてから、妙な加筆がされなくなって何よりのことなのですが。
 この不審火があったとする説は、2月15日付(010)に見たように、2017年2月10日にHN「Kanachan」によって初めて書き込まれ、当初は余り気付かれていなかったのですが、じわじわと浸透し始めて、近年、複数の書物に取り上げられて、もう通説のようになっております。
 本書も「不審火」としているところから、Wikipedia に拠って記述していると思われるのですが、昨日の引用からも分かるように、郷内氏は「ノート」原文の表現を使わずに、「ノート」では一人称だったはずの裕木氏を客観視して書いています。
 そうすると、仮に「話の大筋そのものについては大きな手を加え」ていないにしても、何処までが「ノート」の原文にあったのか、それとも郷内氏がリライトに際して細かい補足として書き足したのかが、分かりません。もし原文にあったとすれば、Wikipedia の「不審火」説の早期の影響の一例と云うことになります。尤も、2017年10月に見て、書き留めたまでで発表した訳ではありませんから、飽くまでも、今年新たに出現した Wikipedia「道了堂跡」項の影響の一例と云う扱いしか出来ないのですけれども。
 ただ、当ブログの方が断然証拠正しき検証を積み重ねているとは云え、Wikipedia の影響力は書籍以上の物がありますから、こうした積み重ねがやがて、通説化へと飛躍してしまう訳です。――当方は、相変わらず飛躍の切っ掛けを摑めぬままですが。(以下続稿)

*1:ルビ「いとこ・ゆ さ 」。

*2:ルビ「どうりようどう」。