瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(119)

Wikipedia「道了堂跡」項の修正
 以前から私は Wikipedia「道了堂跡」項の記述には問題があると思っておったのですが、2022年5月16日付(054)に述べたように、2022年5月10日に為された加筆を切っ掛けにして、下線を引いた箇所(Wikipedia では点線で表示)に[要出典]タグを付け、編集内容の要約には「(→概要: 火災による焼損の報道を確認できない。)」と説明して置いたのでした。

1908年(明治41年)に横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると絹の道が衰退していき、1963年(昭和38年)9月10日に堂守りの女性が殺害された事件[1]があって以降、無住となり堂宇が荒廃[4]1983年(昭和58年)には不審火による火災で堂宇が焼損し[要出典]倒壊の恐れが強くなったため、のちに八王子市により道了堂は解体された。
その後、旧道了堂境内は1985年(昭和60年)に八王子市が策定した市指定史跡「絹の道」の保全と環境整備を目的とする基本構想にしたがい、1990年(平成2年)9月[5]に大塚山公園として整備された。


 当時、私は、昭和58年(1983)に(火災で焼損したために)解体された、と云う説明が誤りであること、昭和61年(1986)の樹木が繁茂する頃に撮影された、焼損していない(が倒壊しかけている)道了堂の写真が存在することの、2点しか摑んでおらず、解体年が確定出来ていなかったので記述の修正までは出来ませんでした。当ブログの記事では、2022年2月15日付(010)まで、Wikipedia「道了堂跡」項がどのように加筆、と云うか編集合戦されて来たかを検討した上で、その根拠については2022年2月18日付(012)に疑問を呈してはあったのですけれども。
 それはともかく、道了堂を遊び場としていたと云う地元・片倉台出身の怪談作家・川奈まり子が昭和58年(1983)不審火で焼け解体、との説明を、1作目の2021年9月上旬刊行の『八王子怪談』でもしていたのですが、丁度その頃刊行されたばかりだった、2022年5月16日付(054)の【2022年5月23日追記】に触れた、続篇の『八王子怪談 逢魔ヶ刻編』では、いよいよこの説明を強く押し出して来ておりまして、これがどうも八王子市内の書店では平積みで売られていると云うので、このままでは川奈氏の説明が通説になりかねないとの危機感(?)を持ちました。そこで、川奈氏の思い込みの原因*1になったと思われる Wikipedia「道了堂跡」項の、不審火云々の件に、せめて疑問符くらいは付けて置かないとヤバイ*2、と思ったので、思い切って上記のような行動に出たのでした。
 すると、特に注意を払っていると勘が冴えるものか、その同じ週に、2022年5月24日付(061)に述べたように、昭和63年(1988)に刊行された登山ガイドブックに道了堂が昭和61年まであったと明記してあること、昭和62年(1987)に刊行されたある学校の校史に昭和61年11月に撮影された、更地になった道了堂の写真が掲載されていることを突き止めたのです。
 登山ガイドは2022年5月27日付(062)に取り上げた守屋龍男『多摩の低山』で、当時守屋氏は執筆のため繰り返し絹の道・道了堂を訪ねており、非常に信憑性の高い記述と言えます。実は守屋氏には、昨年6月に、道了堂がいつまであったか山行記録に記載していないか、そして当時撮影した写真が残っていないか、問い合せる書状を差し上げたところ丁寧な返信を戴きました。残念ながら、数年前に自宅を改築した際に処分してしまって山行記録・写真とも残っていない、とのことでした。
 そして、校史は、東京都立八王子工業高等学校百年史編集委員会 編集『百年史』なのですが、写真に道了堂が写っていないことに値打ちがあるので、写真を転載するかどうかで迷って投稿自体を躊躇しておったのですが、結局掲載せずに1月10日付(115)として投稿しました。夏頃の写真に写っていた道了堂が、11月16日に撮影した写真に写っていないばかりか、綺麗に更地にされているのですから、道了堂が、それと意図して「解体」されたのは昭和61年である、と、これで確定出来たのでした。
 そこで慌てて(?)Wikipedia「道了堂跡」項の修正をしても良かったのですが、まだまだ道了堂に関しては資料の発掘・紹介を続けている段階で、余り急いで事を運ぶ必要も感じなかったので、[要出典]タグに応じて昭和58年解体とする出典を挙げる加筆者が現れれば、そのときこれに反論する形で昭和61年解体と修正すれば良いと思って、待つことにした訳です。
 そして、当然と云ってしまえば当然なのですが、そんな大胆な加筆者はいつまで経っても現れません。
 漸く先月23日に加筆者が現れたのですが、その加筆者 HN「Ujiphippo」は別に多摩地域や八王子の歴史、或いは心霊スポットなどに関心がある訳ではなくて、[要出典]タグが付いて9ヶ月が経過しても何の反応もないことから「、1983年(昭和58年)には不審火による火災で堂宇が焼損し[要出典]倒壊の恐れが強くなったため」の一節を削除したもののようです。
 しかし私が問題視しているのは「不審火で焼損」の件だけではないので、この HN「Ujiphippo」の加筆のままにするのも望ましい状態ではありません。そこで、先月28日(に HN「Ujiphippo」の加筆に気付いたのですが)、9ヶ月越しになりますが漸く本文に手を入れることにしました。

1908年(明治41年)に横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると絹の道が衰退していき、1963年(昭和38年)9月10日に堂守の女性が殺害された事件[1]があって以降、無住となり堂宇が荒廃[4]した。
その後、1985年(昭和60年)に八王子市が策定した市指定史跡「絹の道」の保全と環境整備を目的とする基本構想により、1986年(昭和61年)に八王子市が堂守の遺族から土地を買収、道了堂は解体された。1990年(平成2年)9月[5]に旧道了堂境内は大塚山公園として整備された。


 編集内容の要約は「(道了堂の解体理由と時期)」としました。
 絹の道の衰退は馬場喜信が指摘しているように横浜鉄道開通以前からですし、脚注[4]ももっと適当なものに差し替えたかったのですが、しばらくそのままにして置くこととしました。いづれ全面的に改稿したいと思っております。
 実は、守屋氏と同時にもう一方、問い合せの書状を差し上げた人がいて、その人からの説明によってここは記述しております。色々資料も頂戴したのですが、この辺りの八王子市の動きを裏付ける文字資料はありませんでした。そこで、本来なら加筆に際して出典を挙げるべきなのですけれども、差当り出典を添えずに取り急ぎ、あるべき説明に修正した次第です。
 なお、川奈氏の道了堂に関する記述は、『八王子怪談 逢魔ヶ刻編』までは一応目を通しております。しかし、川奈氏の述べていることを対象に含めると、あちらはあちらで現に調査を進められているようですので、色々ややこしいことになると思って、敢えて触れずに来ております。情報提供しようと思っていないので、コンタクトを取るつもりもありません。川奈氏は最近、YouTube などでも道了堂についても語っているようですが、いづれ川奈氏の著書の問題点について種々検討する際に視聴することにして、私としては、当初の目標である明治・大正・昭和・平成までの道了堂及び道了堂跡に関する資料を網羅的に蒐集し、検討し、紹介すると云う作業に専念したいと思っておるのです。今は、決して無視している訳ではなく、資料整理の順序として後回しにしているのだ、と云うことを、お断りして置きます。(以下続稿)

*1:直接 Wikipedia「道了堂跡」項に拠ったのではないとしても、Wikipedia に不審火による焼失/焼損により解体された、と云う説が出て来る前は、そのような説明はネット上にも皆無だった(但し現在閲覧出来るページですが)のがこの後、不審火があって解体、と云う説が優勢になり、現在ほぼ通説のようになっておりますので、川奈氏が間接的に影響を受けたことは間違いないでしょう。――実は川奈氏も道了堂を取り上げ始めた頃から『実話奇譚 呪情』までは不審火があったことなど全く触れていなかったのに、Wikipedia「道了堂跡」項に問題の加筆が為された後の『実話奇譚 怨色』以降、不審火に触れ始め、近年、それがいよいよ強調されて来ている訳です。立教大学助教授教え子殺しに関する記述はその後、正しい情報に接して訂正する方向に進んでいるようですが、道了堂の解体に関しては、誤情報により、それを作家的想像力により増幅させてしまうと云う方向に進んでいるようです。いづれ川奈氏の道了堂に関する記述・発言については、順を追って徹底的に検討するつもりでおります。

*2:原義。