瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(328)

 一昨日、12月28日付「『稲川淳二のすご~く恐い話』(6)」に少し苦情(?)を述べたように、私は赤マント流言について長らく調べていて、恐らく日本で一番詳しいのだけれども、執筆希望を出しているのに何処からも執筆依頼がない。それどころか、当ブログを利用した都市伝説本が出てしまう始末である。いや、気付けばもう1年間、続稿を上げていなかった。そこで、まぁ、アピールも兼ねて、それからこのままだと2022年が空白になってしまうので、続稿をぼちぼち上げて置くことにする。

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・上田庄三郎『教育の新世紀』昭和十四年 六 月二十八日 印  刷・昭和十四年 七 月 十 五 日 發  行・定價一圓五拾錢・啓文社・2+8+223頁
 上田庄三郎(1894.11.10~1958.10.19)は教員・教育評論家で、日本共産党上田耕一郎(1927.3.9~2008.10.30)不破哲三(1930.5.1生)兄弟の父。
 そう云えば、私は不破哲三に会ったことがある。――学部生の頃、山伏の孫で後に出家したサークルの友人と多摩の低山を歩いていたことがあって、秋川流域の、戸倉城山だったか、夕方に下山していたところ、背筋の伸びた初老の、しっかり登山着を着込んだ紳士が1人で登って来て、穏やかに「山頂はもうじきですか?」と訊かれたのである。登山帽を被っていたが、どう見ても不破氏であった。笠原和夫『昭和の劇』を読むに不破氏も中々えげつない人物らしいのだが、直接会った印象はすこぶる良いものであった。実は別人だったのかも知れないが。だから「桜を見る会」なんかも効果があるのである。私なぞは人に合わないから、なるべく会わないようにしているのだけれども。
 「序」2頁、「目  次」8頁、1頁(頁付なし)「第一部 評    論」の扉、本文は3頁から164頁まで「13」章、165頁(頁付なし)「第二部 隨    筆」は167頁から223頁まで「11」章。
 「第一部」その77~101頁「8 教育の危機と文部官僚」の、77頁2行め~81頁6行め「一、文 化 的 空 氣」に、時代の空気を述べた中に以下のように「赤マント」が持ち出される。78頁14行め~79頁12行め、

 だが、われわれを取りまく文化的空氣は濁り、精神的氣候は曇つてゐる。事實においてフアツ/【〔78〕】シヨだと思つてゐるその當人が、「斷じてフアツシヨではない」といひ、明かに敵對關係にあり思/とふ第三國が、案外に仲よしだと聲明される。自由主義かと見ればフアツシヨなり、フアツシヨ/と思へばさにあらず、進步かと見れば反動である。不擴大であるか擴大であるか? 領土的野心/がありかなしか? 對手にせずかしてゐるのか? 近衛内閣は何故止めたのか? 近衛内閣の延/長である平沼内閣がなぜ近衛政策から後退してゆくのか? より新しい内閣になぜ舊い首相が居/殘らねばならぬのか? 居殘る理由があるとすればなせ嫌さうにしてゐるのか? およそ不可解/な謎は「赤マント」に限つた現象ではない。一切が國民の前にも「敵前上陸」である。不可解の/累積は、國民心理の緊張ではなくて、一種の神經衰弱状態となる。少くともこんにちの國民に、/ニイチエのいはゆる「憑かれたるもの」でないものがどれだけあるであらうか。もとよりこれは/戰時といふ特殊な時期にのみ視る非常の現象ではあらうか、非常時の心理も論理もことごとく恒/常化しようとするところに現下の特色がある。そして精神の世界においても急性の慢性化は必然/の經過であらう。


 誤植が多いらしく79頁1~2行め「にあり思/とふ」は「にありと思ふ」であろう。
 また、同じ章の86頁7行め~92頁1行め「四、文 化 指 導 と 教 育」の節に、89頁6~14行め、

 人はまた今日、入學試驗の門に殺到する試驗地獄の世相の中に、父兄の教育熱を見出すかも知/れないが、試驗地獄や準備教育の問題の非教育性については、もはや論ずるまでもない。試驗地/獄とはかならずしも實力競爭の激しさを意味するものではなく、實力以外の競爭すなはち試驗に/おける闇取引の横行に名づけられたものである。一人百圓、二百圓などといふ商品切手や菓子折/の物いふ世相は、こんにちのインフレ景氣とともに激増したやうである。露骨に金に物を言はせ/ることしかできない非教育的な父兄の激増は、試驗地獄の深化に拍車をかけ、希望多かるべき新/學年の教室にはかかる忌はしき受驗實話が、赤マントの流言のやうに汎濫し、無心な青少年の向/學心を蝕みつつあるのは生々しい事實である。これは當の噂の主たる教師に對する尊敬や當局が/奨勵する師道の興隆を艶消しにし、教育の威信を地におとすものでしかない。‥‥

と再度持ち出されている。
 これら「赤マント」もしくは「赤マントの流言」は、註釈を加えずとも読者の誰もが知っている、最近の、もう済んでしまった出来事として、使われていることが明らかであろう。(以下続稿)
追記】上田氏が当時何処に住んでいたのか、Wikipedia に拠ると長男の上田耕一郎は現在の神奈川県茅ヶ崎市(当時は神奈川県高座郡茅ヶ崎町)生れ、次男の不破哲三(上田健二郞)は東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区の南部)生れ、ともに東京府立第六中学校、第一高等学校、東京大学を卒業している。――しかしながら、不破哲三『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』に拠れば現在の中野区野方生れと云うから当時は東京府豊多摩郡野方町である。小学校が分かればもう少し場所を絞り込めるだろう。年明け早々『私の戦後六〇年』を閲覧して確認したい。