瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(43)

反町茂雄「辞書のはなし」(1)
 村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」が赤堀氏の生歿年を「赤堀又次郎(1866‒1943?)」としている理由の1つは、前回検討したHN「書物蔵」のブログ「書物蔵 古本オモシロガリズム」の、4月20日付(30)に整理した赤堀氏に関する諸氏のブログ記事のうち仮に【⑦書物蔵】との番号を附した、2011-06-30「赤堀又次郎 1866-1943?について」にあるのだと思っている。
 尤も「書物蔵」は記事の題には「1943?」としているのだが本文では根拠とした資料の検討から「少なくとも昭和17年まで生きていたと考えてよいだろう。没年は不明だが、higotosukeさんの引用から、未亡人が反町に本を売りに来*1ているので、昭和18年から昭和20年5月(山の手が空襲にあう)の間であろう。」と書いていて、飽くまでも慎重である。「higotosukeさんの引用」とは【②higo】としたHN「higonosuke」のブログ「黌門客」の2006-06-15「赤堀又次郎の話」で、反町茂雄『一古書肆の思い出3』を紹介している。
 しかしながら、それよりかなり前に、より断定的に昭和18年頃歿説を打ち出した人のあったことが、【①空山】すなわちHN「空山」のブログ「くうざん、本を見る」の2006-05-19「判明」によって判明する。

三省堂ぶっくれっとを見返していたら*、69号反町茂雄「戦火を免れた古辞書のこと」で、赤堀又次郎のことを「敗戦決定の二、三年前になくなりました」と書いてある。空襲下を未亡人が古典籍を一つだけ抱えて猛火をくぐり抜ける話があるから、敗戦前の没であることに間違いはなさそうだ。


「*」にはリンクが貼ってあってHN「okjm」のブログ「本の目次を写すは楽し」の2006-05-23「『三省堂ぶっくれっと』69 1987.7」に飛ばされる。「空山」も「okjm」も大阪大学大学院文学研究科国語学教授岡島昭浩(1961.2.15生)のハンドルネーム。こちらのブログはタイトル通り目次を紹介しており、「三省堂ぶっくれっと」69(1987.7.1発行 70円)の、恐らく巻頭に「〈辞書のはなし(15)〉戦火を免れた古辞書のこと/反町茂雄」が載っていたことが分かる。これに「(赤堀又次郎・文明本節用集)」と添えてあるのは岡島氏のメモだろう。
 岡島氏もやはり「敗戦前の没であることに間違いはなさそうだ」と慎重であるが、この反町氏の「敗戦決定の二、三年前になくなりました」と、実は【⑦書物蔵】が見付けていた、『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』佐藤哲彦「解題」の「赤堀又次郎について」で「昭和十八年までの足跡は他の資料からも若干は追える」とした資料と思しき『現代出版文化人総覧』『文芸年鑑』とを合わせれば、「1943?」との歿年は、かなり確実なことのように思われて来るのである。
 さて、この「『三省堂ぶっくれっと』六九号」は佐藤氏も挙げているが、25年前の、普通の図書館には保管されていないPR誌をわざわざ見に行く余裕があったかどうか。恐らくは【①空山】の記述を信用して、全面的に依拠して書いたのだろうと思う。違ったら御免なさい。
 私も「三省堂ぶっくれっと」を容易に閲覧出来る場所を思い付かなかったので、同じ場面があるはずの『一古書肆の思い出3』を見たのだった。
 ところが『一古書肆の思い出』では、4月2日付(12)に見たように「敗戦決定の二、三年前」に死去したなどとはしていない。昭和15年(1940)から山の手空襲までの間に死去したとしか分からない。
 そこで「三省堂ぶっくれっと」の本文を確かめたいと思って、反町氏の単著未収録の文章は『反町茂雄文集』にほぼ遺漏なく収められているはずだと思って3月15日付「反町茂雄『一古書肆の思い出』(5)」に書影を貼付した反町茂雄文集』を東京都立中央図書館から取り寄せて借りたのである。
 結論から云うと「敗戦決定の二、三年前になくなりました」には何の根拠もない。『一古書肆の思い出2』に述べてあったように反町氏は昭和15年(1940)から赤堀家と接触していないし、『一古書肆の思い出3』の、昭和21年(1946)に弘文荘を訪ねて来た赤堀未亡人と再会する場面でも、何時赤堀氏が死んだのか、細かい話はしていない様子で、「戦火を免れた古辞書のこと」の記述は、印象を何となく述べたに過ぎないらしいのである。(以下続稿)

*1:原文「着」となっているのを訂正。