・『森銑三著作集』続編(1)
『森銑三著作集』続編には赤堀又次郎の名前が何箇所か出ている。これについては5月15日付(55)に再開後に取り上げるつもり、としたが、今、あの重い『森銑三著作集』の関連する巻を揃えてあるので、返却する前にメモだけ済ませて置こう。
『森銑三著作集』続編 別巻(一九九五年一二月一〇日初版印刷・一九九五年一二月二〇日初版発行・定価85442円・中央公論社・653頁・A5判上製本)
赤堀又次郎 ⑤五八四、⑨四九四、⑫二九九、/ 四二七、⑬一六八、⑭一五四
とある。漢数字は半角。
第五巻については5月7日付(47)に見た。
第十二巻の「赤堀翁」には5月15日付(55)に触れた。ここではその本文を見て置こう。
・『びいどろ障子』一九八八年八月二十日 初版發行・定價二五〇〇圓・小澤書店・288頁・四六判上製本
『著作集』299頁上段12行め、1字下げ2行取りでやや大きく「赤堀翁」と題し13行め~下段6行め、『びいどろ障子』では197頁5行め~198頁10行め「竹清翁」に続いて198頁11行め、1字下げでやや大きく、前に2行分、後に1行分空けて「赤堀翁」とあって、12行め~199頁5行め。改行位置は前者「/」後者「|」とした。
京都の富岡謙蔵氏は、赤堀又次郎氏と仲が善かつたさうで/ある。それでいつだつたか京都|へ上つた山田清作さんに言づ/けして、赤堀君に遊びに来るやうにいつてくれ給へ、とのこ/と|だつた。帰つた山田さんが、その由を伝へたら、翁は大変/喜んで、間もなく出かけて行かれ|【198】た。そして富岡氏方に滞在/することが約一箇月に及んで、その間毎朝出かけては、夕方/【299上】帰る。|実によく出て歩かれたもので、日和下駄の歯を入替へ/ることが二度だつた。それでゐて、け|ふはどこへ行って、何/を見て来たといふやうなことは、富岡氏にも、つひに話され/なかつた|さうである。恐らく帰つてから、奥さんにも話され/なかつたであらう。――竹清翁の日記に、|こんな話が書いて/ある。
異同は『びいどろ障子』が正字にしてあることである。
もう1箇所は、426~429頁「三省堂の日本百科大辞典」である。この文章は4月28日付(38)に引いた「斎藤精輔氏の自伝」の冒頭に、触れてあった。しかし何故『明治人物夜話』に収録しなかったのだろう。序でに載せて置けば良かったろうに。いや『新編 明治人物夜話』に収録すべきだったろう。
初出は「斎藤精輔氏の自伝」にもあるが、561~568頁「編集後記」を見るに、562頁10行め「「三省堂の日本百科大辞典」は、雑誌『日本古書通信』昭和三十七年十一月号に発表された。」とある。冒頭の段落を抜いて置こう。426頁上段1~8行め、
『朝日新聞』に連載中の「私の先生」の第四十三回の見出し/に、「斎藤精輔先生」とあるのを見て、おや、と思つたら、/やはりさうであつた。斎藤氏は三省堂の『日本百科大辞典』/の奥附に「編輯代表者兼発行者」として出てゐるのに依つて、/私等もその名を知つてゐる人であるが、その人のことが、詩/人の長田恆雄氏に依つて、新しく語られてゐるのであつた。/長田氏の一文を通して、私は初めて斎藤氏の人物を知ること/を得たのを喜びとしたい。
以下、森氏が注目している項目執筆者とその担当分野を列挙し、特に饗庭篁村、幸堂得知、幸田露伴、沼波瓊音について、その執筆項目まで挙げて述べている。赤堀氏については427頁上段19行め~下段1行め、
‥‥。なほ前には挙げなかつたが、遊軍/のやうな形で、いろいろの項目を書いてゐられる人に赤堀又/【上】次郎翁がある。
と触れている。赤堀氏がこのような執筆振りになった理由が『辞書生活五十年史』から窺われる訳である。
最後、429頁下段を見て置こう。
なほこの辞典の最後には、斎藤氏執筆の「日本百科大辞典/編纂の由来及変遷」と題する、実に四十四頁に及ぶ一文が附/載せられてゐるが、この辞典を利用する者は、一度はこの文/を読んで、本辞典のいかに多くの労苦の結晶として生れたも/のかを知るべきであらう。
この辞典は第六巻までが三省堂の出版で、第七巻以下は同/辞典刊行会の発行となるのであるが、この文の標題は、通称/に従って「三省堂の」とした。
『朝日新聞』の長田氏の文は、切抜いて置いた。これは保存/して置くつもりである。
ここまで読むと「斎藤精輔氏の自伝」執筆時に「日本百科大辞典編纂の由来及変遷」を参照していないことが明らかとなる。5月1日付(41)に触れたように、これはかなり『辞書生活五十年史』と重なっているのだけれども、しかし「斎藤精輔氏の自伝」執筆時には忘れていたらしい。
私が森氏の文章を読んでいてイケないと思うのは、自らがかつて注意していた、参照すべき重要文献みたいなものを、同じ主題について新たに材料を得て書く際に、参照しないことである。――なるほど、これでは『新編 明治人物夜話』に「三省堂の日本百科大辞典」を収録するのは、差し控えた方が良いだろう。とにかく私が戦後の森銑三は物識りのエッセイストだと云うのはこの為である。当人の書いたものも積み重ねがない。物識りだからそれなりに色々関連付けてあって、読んでいてそんなに不足は感じないのだけれども、そこが却って厄介である。そして、人の書いたものも、選り好みをしているから実は余り先行文献をチェック出来ていない*1。いや、――後で触れるかも知れぬが、柴田宵曲が「日本古書通信」連載のコラムに書いたのと同じ本の同じ題材で、しばらく後に森氏も「日本古書通信」連載のコラムに書いていて、この人は柴田氏のことを「宵曲子」と持ち上げながら、実はきちんと読んでないのではないか、と思ったことがある。柴田氏が最晩年に「日本古書通信」連載コラムを纏めた本には、この森氏とダブったものを除外してある。どうやら宵曲子の方は気付いていて、遠慮したらしいのである。(以下続稿)
*1:そこまでしないから〝程良い文章〟を量産出来たのだろうけれども。