瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(209)

武田百合子『ことばの食卓』(2)
 昨日の続きで「牛乳」について、牛乳を飲まされていた話題が赤マントに展開して行くまでを見て置こう。
 昨日引用した箇所に続いて、牛乳配り=牛乳屋について描写する。①17頁7行め~18頁1行め②18頁9行め~19頁3行め③18頁9行め~19頁3行め④177頁1~8行め、

 牛乳配りは、坂の下の木橋のまん中に自転車のスタンドを立て、少し汚れたズ|ック/の大\きな袋を提げて、坂を上ってきた。台所の窓にはまった桟の間から、三|本、白手/袋の手を\のばして差し入れる。洗い晒したピケの白帽子をかぷっていた*1
 耶蘇教の信者で*2、牛乳配りをしたあとは部屋の中で本を読んでる、だからお金|がな/い、\あの年でおヨメさんがいない、―――*3牛乳屋についてのこんなことを私は|どうし/て知ってい\たのだろう。大人たちが話すのを聞きかじっていたのだろう。|【②③18】あの年、と/いったって、い\くつぐらいなのかは、私はわからないのだ。
「嬢ちゃんは……?」私をよび出して、牛乳屋は窓越しに、いろいろなものをく|れ/【①17】た。


 次の段落(①18頁2~9行め②19頁4~12行め③19頁4~12行め④177頁9~16行め)に牛乳屋がくれた物が列挙されるが割愛する。この中には「小学校に上ったとき」に「くれた」物が挙がっていることが注意される。ぽつぽつ、まだ母親がいた頃の記憶が混じっているようだ。
 さて、こう書いていくと良い人みたいだが、この牛乳屋、やはり少々危ない人だったようだ。①18頁10行め~19頁9行め②19頁13行め~20頁13行め③19頁13行め~20頁13行め④177頁17行め~178頁13行め、

 牛乳屋が、下水のコンクリートの縁石ばかりを、わざわざ伝うような歩き方で|坂の/右は\【④177】じを上ってくる。普通の男より顔が白く、てらてらして見える。ひょろ|【②19】ひょろと/右の家に\入って、すぐ出てきて、ひょろひょろと斜め左の家の木戸を入|って、すぐ出/てくる。その\姿が目に入ると、私は家の中へ駈け込んだ。うっかり|して、先に見つけ/られたら、ズック\の袋を道端に置いて、白手袋の両手をひろげ|て追いかけてくる。肋*4/【①18】と腋*5の下に手を入れら\れて抱き上げられてしまう。牛乳屋|の顔は、そばで見ると、で/こぼこして、ぼつぼつがあ\る。「嬢ちゃん、たんと牛|乳飲んで、どれ、どのぐらい、/重たくなったかな」などと、つ\ばきを口の中にた|めた声で言う。
 体操の時間、眼の端の方がむず痒い気がして*6、そっちの方をふと見ると、白手|袋の/指を\校庭の柵の金網にかけて、顔をおしつけている牛乳屋がいる。
 学校の帰り、道いっばいに手脚をひろげて立ちはだかり、待ちかまえている牛|乳屋/を見\ると、友達は素早くわっと逃げてしまい、私はランドセルと草履袋ごと|抱き上げ/られて、\そのまま家まで送られてしまう。牛乳屋の白手袋の下の左の手|首あたりに、/腕時計をはめ\たみたいに、桃の青い絵があった。・・・・


 これが、昭和10年度、小学4年生のときにも続いていたらしいことは、①19頁12行め~20頁4行め②21頁2~8行め③21頁2~8行め④178頁15行め~179頁4行め、

 雪が降った朝、登校すると、先生と小使さんが校門にいて、今日は休み、家で|勉強/する、\とメガホンで言った。(二・二六事件の日だったのだろう、きっと。)|どこもか/しこも真白\くふくれ上ったために、いつもより狭くなった白い道を、嬉|しいような、/【①19】心配なような気\【④178】持で、ぼんやりと帰ってくる。どうして休みなのか|わからない。どう/してなのかとも思わ\ない。その電信柱を曲れば、あと少しで家、|という電信柱のとこ/ろに人がいる。真白な道\に、ゆらりと出てきて白手袋の手を|ひろげた。怖くて、何だ/か、自分からどんどん行って、\抱かさった。

とある。しかし、本当にこんなことがあったのだとして、今風に云えばストーカーと云うことになるだろう。朝、小学校が休校で、じきに戻って来ることを見越して鈴木家の近くで待ち構えていたとは。しかし昭和11年(1936)2月26日だとすると「二人の弟」の1人、進は3学年(進が早生れなら2学年)違いだから一緒に登校していただろうと思うのだけれども。(以下続稿)

*1:④ルビ「ざら」

*2:④ルビ「ヤソ」。

*3:②③④は「――」2字分。

*4:ルビ「あばら」。

*5:④ルビ「わき」。

*6:④ルビ「がゆ」。

赤いマント(208)

武田百合子『ことばの食卓』(1)
 8月4日付「武田百合子『ことばの食卓』(2)」にて、『ことばの食卓』諸本の体裁を確認するために2篇め、「草月」の連載では第1回に当たる「牛乳」を例に取り上げたが、この「牛乳」に赤マントが出て来るのである。しかしながら、色々と問題があるので確認しつつ眺めて置こう。
 ①15頁、牛乳を飲まされるようになった切っ掛けは「やっと歩けるくらいのときに・・・・死にかけてからのことだそうだ」が、そこは伝聞で回想ではない。ここで回想されるのは「小学校へ上ったら、要注意虚弱児童に指定されて、身体検査のたびに学校から手紙を持たされる」ような按配のため「二人の弟」と「お風呂から上ると」温めた「牛乳を飲み干させ」られたと云う体験だが、その役目を「やかましく」務めていた「おばあさん」と、牛乳を温める土鍋をかけた「長火鉢」について。8月3日付「武田百合子『ことばの食卓』(1)」に挙げた4種の収録位置は①17頁1~6行め②18頁3~8行め③18頁3~8行め④176頁12~17行め、改行位置は①「/」②③「|」④「\」で示した。

 引出しのついた側の長火鉢の前は、おばあさんの場所で、引出しのない側が、|父の/坐る\場所だった。長火鉢の前に坐っている母の様子は浮んでこない。病死し|た母の代/りに私た\ちを育ててくれる、この遠縁のおばあさんが、いつも坐ってい|る。つれあい/に早く死に別\れたあと、一人娘も亡くしたおばあさんが、事細かに|繰り返す仕方話/は、娘が生れたとき\と死んだときのことばかりだったから、私は|朧気に、赤ん坊は固/いうんこみたいに生れる\のだ、と考えていた。*1

とあるのだが、これについて武田百合子武田花 編『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』(二〇一七年三月二五日初版発行・定価2800円・中央公論新社・533頁・四六判上製本)511~521頁、鈴木修 編「武田百合子略年譜」を参照した。

あの頃 - 単行本未収録エッセイ集

あの頃 - 単行本未収録エッセイ集

 512頁1~10行め、

一九二五年(大正十四)
九月二十五日、神奈川県横浜市神奈川区栗田谷十二番地にて、鈴木精次、あさのの間に生まれ/る。異母兄姉に豊子、敏子(大正十二年七月二十四日死去)、新太郎。兄に謙次郎。
 
一九二八年(昭和三) 三歳
弟・進誕生。
 
一九三一年(昭和六) 六歳
弟・修誕生。
 
一九三二年(昭和七) 七歳
四月、神奈川県横浜市栗田谷尋常小学校入学。
七月十三日、母・あさの死去。以後、母方の大叔母、樫本みつが母代わりとして一家に入る。


 これによって「おばあさん」が「母方の大叔母」であったことが判明する。この大叔母が鈴木家に来たのは母の歿後、すなわち「小学校に上」る頃では「おばあさん」ではなく母が牛乳を飲ませる役だったはずなのだが「母の様子は浮んでこない」すなわちその記憶はないのである。また「二人の弟」の生年も判明するが、学年の違いを確認するためには年だけではなく年月(日)まで書き入れて欲しい。
 なお④『精選女性随筆集 第五巻 武田百合子』にも269頁に上下2段組の「略年譜  武田百合子」があり、下部右寄りに横組みで「*『武田百合子全作品 7 日日雑記』(中央公論社)、/『文藝別冊 武田百合子』所収の鈴木修氏編の年譜を参考/にさせていただきました。」とあって『あの頃』の「武田百合子略年譜」はここに挙がっている2冊に既に収録されていたらしい。それはともかく④『精選女性随筆集』には「二人の弟」や「大叔母」の記述は略されている。「牛乳」を読むためにはあった方が良いと思うのだが。
 栗田谷小学校は現存しない。Y・Y NET(YOKOHAMA-YUME-NETWORK:横浜市教育情報ネットワーク)の「横浜市立栗田谷中学校」HPの「学校紹介」の「沿革/学校のあゆみ」を見るに、「昭和24年(1949)7月22日」条に「栗田谷小学校校舎に移転」とあって、現在の栗田谷中学校の位置にあった。
 廃校になった経緯は少々ややこしく、Y・Y NET「横浜市立二谷小学校」HPの「学校紹介」の「沿革/学校のあゆみ」を見るに、終戦前後10年ほどについて、

昭和16(1941)年04月  横浜市二谷国民学校と改名
昭和19(1944)年08月  校舎が陸軍病院として使用される
昭和20(1945)年05月  校舎が横浜大空襲で焼失
昭和21(1946)年01月  栗田谷国民学校に統合される
昭和22(1947)年05月  横浜市立栗田谷小学校と改名される
昭和24(1949)年07月  栗田谷小学校が現在地に移り、横浜市立二谷小学校となる
        11月  現在の校章が定められる

とある。横浜市立二谷小学校は東急東横線東白楽駅からよく見える神奈川県立神奈川工業高等学校の南にあって、昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲で焼失して昭和21年(1946)には栗田谷国民学校、すなわち栗田谷小学校に統合されたのだが、栗田谷小学校の校舎が新制中学校に転用されることになったため、空いていた二谷国民小学校の跡地に戻って、名前も二谷小学校と改められたようである。大阪にしてもそうだが、空襲で焼失した学校の移転・統合・改名など複雑である。二谷小学校HPには是非とも、前身の1つである栗田谷小学校についても、その創立から一通り説明して欲しいところである。(以下続稿)

*1:④ルビ「しかたばなし・おぼろげ」。