瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(130)

・杉村顕道の家系(3)
 さて、杉村氏の父について、明治期に官界・実業界で成功を収めた人物として、まづ国立国会図書館デジタルコレクションにて『人事興信録』に当たってみることにした。
・『人事興信録』明治三十六年四月十五日印刷・同 三十六年四月十八日發行・正價金六圓・人事興信所・目次六〇+一一六六頁
 第一版である。『人事興信録』第二版(明治三十六年四月十五日第一版印刷・明治三十六年四月十八日第一版發行・明治四十一年六月十五日第二版印刷・明治四十一年六月十八日第二版發行・人事興信所・八+(甲)目次六六+一四五四+(乙)目次十九+三七四頁)以降の諸版には掲載されていない*1
 いろは順の最後、一一四五~一一六六頁「す之部」の一一五六頁(658コマめ)下段14行め、まづ見出しとして大きく「杉 村 正 謙 〈東京囘航株式會社取締役/山形縣士族〉」とあり、15~18行め、続柄と名前は大きく、1字下げで「 母  小縫殿 〈文政十年十月生/山形縣士族服部外右衞門女〉/ 妻  喜代井 〈萬延元年八月生/山形縣士族大塚又兵衞女〉/ 男    幹 〈明治十四年/一月生〉/ 女    貞 〈明治十七年/四月生〉」とある。大塚又兵衛は「犬塚」の誤植。
 続いて一一五七頁上段1~10行め、

君は山形縣の人安政元年八月十六日を以て生れ父を質/直といふ夙に東京に出で東京囘航株式會社創立に盡し/現に其取締役たり家族は前記の外男茂(明治十九年七/月生)女つる(同二十三年十月生)同文子(同三十一年九/月生)あり兄新平(弘化三年五月生)は其妻利喜(安政六/年四月生山形縣士族松平寅太郎妹)と共に弟則知(安政/三年六月生)は其妻糸(元治元年正月生山形縣士族關/時發姊)姪多吉(明治十五年一月生)同梅井(同十七年四/月生)同美津(同十八年十二月生)とに共分家せり(東京/市麴町區三ノ六三)


 これによって杉村顕が生れる前々年・明治35年(1902)当時の杉村家の家族構成が判明する。前付、三~四頁「例言」の「六」項めに拠れば、四頁3行め「明治三十五年十月現在」の「戸籍」に拠っているからである。2010年12月31日付「年齢と数字」に述べたように、陰暦と数え年は漢数字で、陽暦は算用数字で示した。
・祖母小縫殿(1827.十生)七十六歳。
・父正謙(1854.八.十六生)四十九歳。
・母喜代井(1860.八生)四十三歳。
・長兄幹(1881.1生)二十二歳。
・長姉貞(1884.4生)十九歳。
・次兄茂(1886.7生)十七歳。
・次姉つる(1890.10生)十三歳。
・姉文子(1898.9生)五歳。
 「5男4女」とすれば、文子の前後に、2男1女が夭折していて、四男顕(1904.5生)五男惇(1907.9生)と続くのであろう。
 長兄とは親子ほど、両親とはさらに親子ほどの差がある。――小津安二郎監督『東京物語』の、末娘(香川京子)が若過ぎるところから、周吉(笠智衆)とみ(東山千栄子)夫妻の実子ではないのではないか、との穿った推測を目にしたことがあるが、避妊法の普及していなかった当時、高齢出産は特に珍しいことではなかった。
 正謙には兄がいるが、廃嫡されて分家したらしい。杉村顕からの続柄で整理して置こう。
・伯父新平(1846.五生)五十七歳。
・伯母利喜(1859.四生)四十四歳。
・叔父則知(1856.六生)四十七歳。
・叔母糸(1864.正生)三十九歳。
・従姉多吉(1882.1生)二十一歳。
・従姉梅井(1884.4生)十九歳。
・従姉美津(1885.12生)十八歳。
 母方の祖父・犬塚甘古(1838~1912.9.24)については、致道博物館の酒井忠久(1946.5.3生)館長のブログ「致道ブログ」の2015-01-15「犬塚甘古・一瓢「書と刻字」展」に、叔母の弟・関時発(1865~1945.2.25)については「荘内日報」の特集企画「郷土の先人・先覚」355、岩田明「国語教育の先駆者 関 時発」に詳しい。末尾近く「とに共」は「と共に」に誤植。(以下続稿)

*1:検索しても個人名ではヒットしない。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(129)

・杉村顕道の家系(2)
 杉村顕(1904.5.26~1999.6.11)と杉村惇(1907.9.7~2001.8.13)は生歿年月日も判明している。
 いや、叢書東北の声11『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』435~455頁、杉村顕道の次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」には、歿年月日は451頁下段16行め~452頁下段2行め、9節め「その晩年」に、452頁上段17~18行め、

 父は平成十一(一九九九)年六月十一日に、九十五/歳で亡くなりました。‥‥

と明示されているが、前回引いたように生誕については年のみで月日を示していない。
 そこで457〜464頁、紀田順一郎「杉村顕道の《発見》」には、立風書房版『現代怪奇小説集』に『彩雨亭鬼談 箱根から来た男』所収「ウールの単衣を着た男」収録に当たって、463頁13行め「編集部に届いた略歴書」のあることに触れているので、念のため確認して置くことにした。
 ちなみに457頁(頁付なし)「杉村顕道の《発見》」の扉に、中島河太郎紀田順一郎 編『現代怪奇小説集』の書影が掲載され、458頁(頁付なし)下部中央に、

前頁写真は「ウールの単衣を着た男」を収録した中島河太郎・/紀田順一郎編『現代怪奇小説集1』(立風書房・昭和四九年)

とあり、459頁4~6行め、

 ‥‥、一九七四年に中島河太郎(一九一七~一九九九)と私が編纂した『現代怪奇/小説集』全三冊立風書房というアンソロジーに、顕道の作品「ウールの単衣を着た男」を採録さ/せてもらった‥‥

とある。しかし私は昭和49年(1974)版を見ていない。
・『現代怪奇小説集』下(1981年12月20日 新装第1刷・定価1,300円・347頁・四六判上製本

現代怪奇小説集 下

現代怪奇小説集 下

・『現代怪奇小説集』(1988年7月10日 第1刷発行・定価2600円・689頁・四六判上製本
現代怪奇小説集

現代怪奇小説集

 但し昭和63年(1988)版のAmazon詳細ページの書影は、昭和49年(1974)版『現代怪奇小説集1』と取り違えている。
 それはともかく、まづ3冊本、次いで上下2巻本、さらに1冊本が出たと云う順序である。昭和56年(1981)の2巻本が「新装」と云うのは、既に昭和52年(1977)に2巻本が刊行されていて、それとは装幀を替えた、と云うことらしい。
 2巻本『下』7~347頁は、1冊本349~689頁に一致する。
 2巻本209頁・1冊本551頁は「ウールの単衣を着た男・杉村顕道」の扉(頁付なし)で、その裏(頁付なし)下部右寄りに著者の略歴・解説。続いて2巻本211~218頁・1冊本553~560頁に上下2段組の本文。ここでは2巻本210頁・1冊本552頁の「■杉村顕道(すぎむら・けんどう)」の紹介を抜いて置こう。2~14行め、西暦年は半角。

 明治三十七年(一九〇四)五月二十六日、東京に生まれる。昭和五年、国学院/大学卒業。教育界に投じ、長野、樺太、秋田。宮城など各県の学校に奉職/のかたわら、「サンデー毎日」に作品を発表。昭和十九年、時世に感ずる/ところあって教鞭をなげうち、現在は財団法人宮城県精神障害者救護会の/常任理事を勤めている。
 著書は「近代名医伝」「和訳唐詩百首」「儒海―儒者名鑑」のほか句集「雪/布」など多数があるが、昭和三十七年刊の「彩雨亭鬼談・箱根から来た男」/(仙台・椿書房刊)は、比較的世に知られざる怪奇小説作品集として紹介/の価値がある。
 碁敵の怨念を描いた「白鷺の東庵」、輪廻を扱った因縁話「黄牛記」、菖/蒲の精が人間と契る「扶桑第一」、大震災にまつわる奇談「箱根から来た/男」、妖刀の来歴を語る「節句村正」その他二十一編を含んでいるが、地/方を舞台に独自の余韻を感じさせる作品が多い。       (紀田)


 『儒海』は「杉村顕道の《発見》」464頁12行めにあるように、『現代怪奇小説集』3冊本刊行後の発刊なので、上下2巻本刊行に際しての加筆であろう。
 『怪談十五夜』に触れていないが、杉村氏から送られて来た略歴書に載っていなかったのであろう。「杉村顕道の《発見》」には、464頁2~9行め、

『現代怪奇小説集』は前述の通り一九七四年に刊行されたが、好評で版を重ね、その後も改装新版が/出ている双葉社からの姉妹篇『現代怪談傑作集』(一九八一)には、「白鷺の東庵」を収録)。私は初版刊行後、/またもや古書展で『箱根から来た男』の先行作品『怪談十五夜(一九四六)を掘り出した。一読して/みると、『十五夜』は『箱根』収録の主要作品と同一主題のものが多く、一種の異稿もしくは第一稿/という位置づけにある。その上最近知ったことだが、『十五夜』には重版が存在し、収録作品自体の/増補や削除が行われているということだ(第三版所持の北原尚彦氏のご教示による)。ということは、顕道/はいったん活字にした自作をふだんに手の中で紡ぐように磨き上げ、納得のいく決定稿をめざしてい/たのであろう。道理で語り口が暢達である。


 同様の指摘は9月9日付(112)に見たように北原尚彦によってなされているが、紀田氏が『怪談十五夜』と『箱根から来た男』の関係について「杉村顕道の《発見》」まで書いていなかったとしたら、北原氏が東京創元社「編集部経由で」得た「『怪談十五夜』を増補したのが『箱根から来た男』である」という情報は、何処から流れて来たのであろうか。(以下続稿)