瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(20)

 昨日の続き。
・「七月二十三日。」条(1)鼠の正しさと学者の愚
 前日は雨で涼しかったせいか、キャラメルの存在を思い出した以外は無気力に過ごしていた主人公だったが、5日めのこの日は、初めから感情を爆発させている。――日付も含めて23行だった前日に対し、102行(429~434頁12行め、1頁18行・1行45字)と長くなっている。
 長くなるので全部引用していられないが、まづ、429頁2行め、

 迫り来る飢を如何ともし難い。鼠のように本という本を片端から嚙りたくなる。(略)

と、飢えが前面に出て来るのはここからである。なお、ここまで段落の途中から引用した場合、そして下略した場合、省略箇所の存在を二点リーダ「‥‥」で示して来たのだが、本作に多用される三点リーダ「……」と紛れそうなので「(略)」とした。
 そして3~7行め、

(略)……鼠の正しさに引かえ、人間の偽善と、遊戯を悲しむ。万巻の稀覯書を眺め、その/無益の労作と、遊び――本当に遊びなのだ。万巻の本を読んで何の愉悦と満足とを覚えようぞ。……/「衣食足つて礼節を知る」を身を以て教えた昔の人の偉さ……それに反し、一生を本に埋れて、これ/自己満足に日を送って居た『学者』の愚……耕さざれば食うべからずの古語――ここに寸土あれば、/今すぐにも耕し度い。食、食、食……(略)*1


 この「食、食、食」との書き方は、6月15日付(17)の最後に、2日め・3日めに「飢え」と対置されていると指摘した「本、本、本」に対応している。特に3日めの最後「この書庫の本、本、本、が何と値打ちのない一ヶの石塊に思え、それをつくった学者たちの無情に腹が立ったことよ――。」を、ここでさらに進めている。もちろん、それは尋常ではないから為し得た発想なので、8行め、今や鼠でも「口にしたい欲望は湧然とにじみでる。」と云った按配なのである。
 しかし、万巻の稀覯書を繰る学問が「遊び」であるのは、全くその通りであろう。しかし私はスポーツも「遊び」だと思っているので、何処でこんなに差が付いてしまったのか、訝しく思う。もちろん、一方は利権と強く結び付き、もう一方は金儲けの手段としてはまるで駄目になってしまった、と云うことなのだが、學燈社も桜楓社も潰れてしまった。至文堂もあってなきが如し、私が女子高講師時代に使っていた古典文法のテキストは、京都の国語教材専門の出版社が出していたもので、使いやすく説明も穏当で気に入っていたのだが、この出版社も入試の古典離れの煽りを喰らってか、潰れてしまった。
 オリンピック中止と云う意見に対し、許せない、みたいなことを twitter などで訴える人々がいて、曰く、選手たちがそのためにどれだけ努力して来たか、それを考えれば(当然応援するべきで)軽々しく中止などと言えないはずだ、と。しかし、別に良いではないか。冷静に判断したら、一刻も早く中止すべきだと云う結論に当然なるだろうと思うばかりである。それに、選手の努力が純粋だとして、どれだけその周囲に妙な仕組みで金儲けをする連中が生まれているか考えれば、私にはそんな綺麗事として捉えることなど出来ない。いや、体育会系の努力は報われるべきだとして、文系の、就職にあぶれて、そして今度、文部科学省の方針で非正規雇用の講師・研究員職からも追い出されそうになっている連中の、夢や努力はどうなるのか、と言い返したいのである。
 いや、私は早くにそっちに見込みがないことを、独立行政法人の大学院に移って、そこで予算制度に染め上げられて尋常ならざる発想をする職員と教員たちに辟易して、それこそ参ってしまって、抜け出して来た訳だから、正直、未だに学界にしがみついている連中に同情しない。君たちも早く抜け出して、この状況を作った無能な役人と文学部の教員たちに弓引くべきだと考えている。しかし、ここまで声高に、運動馬鹿の連中の夢と希望を挫くな、みたいなことを言い立てられると、流石の私もそんなに、あれが、偉いのか? そして私らだけが、自己満足で自己責任の愚か者なのか? と言い返したくもなるのである。
 もうIOCは解体すべきだろう。それぞれの競技団体が世界選手権を勝手にやれば良い。全てを集めた祭りの、リスクを考えるべきである。(以下続稿)

*1:2020年6月26日追記】「衣食足って」の如く促音とすべきである。

阿知波五郎「墓」(19)

 大学が再開になったのか、それとも入構規制が解かれて登校出来るようになったからなのか、大学生が連れ立って歩くようになった。あんなに「密です」とか云って脅して自粛させたのに、掌を返したように野放しである。
 昨日が都内の図書館の返却期限であったが、数日前に35℃とか云う予報で、今日は、別の日だったかも知れないが26℃との予報だったので、今日の午前出掛けることにした。しかし昨日の午前の方が曇っていて涼しかった。マスクをして行ったが空気が温まり切っていないので、走っていて風に当たると涼しいし、そんなに苦痛ではなかった。先日書いたように混雑レーダーでルートを選定して出掛けたので、人混みに突っ込むようなこともなく、途中、都立高校の脇を通り掛かって、誰もいないかのように静まり返っていたが、帰り、昼過ぎに通り掛かると少ない人数ながら下校の生徒が何人もいて、分散登校で午前で終わりらしい。しかしいよいよ通勤電車が混み出しているのに、生徒たちが普通に乗るようになったら、完全に元通りである。新しい生活様式も何もあったものではない。北京は休校になったそうだが、夜の街さえ押さえて置けば十分なのだろうか。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

・「七月二十二日。」条(2)キャラメル・煙草・渋谷
 昨日は4日め「七月二十二日。」条の初めの5行ほどを検討して終ってしまったが、今回はその続き、427頁17行め~428頁10行めを見て置こう。ここで「飢え」について、初めて具体的な描写がなされるのである。
 さて、私などはせいぜい(中学時代、或いは高校山岳部時代からの癖として)自転車で遠乗りに出掛けたり、2018年9月1日付「古典籍原本調査の思ひ出(1)」に述べた、図書館に貴重資料の閲覧に出向いた折などに、時間を惜しむのと面倒なのとで昼食を摂らずに済ませてしまったことがあるくらいで、飢餓状態に陥った経験がないので本作が何処まで「リアル」なのか、見当が付き兼ねるのであるが。

‥‥。ハンド・バッグに、子供を連れて動物【427】園の招待を受けた時キャラメルを貰って入れてある事を想いつく。思わず手が顫えて、ハンド・バッ/グをまさぐる。手鏡もパフも……すっかり抛り出して、やっと底からキャラメルの箱を発見した喜び/……手を顫し、目を輝かし乍ら開けると、僅か一つそれも板のように濡れくずれて、箱にくっついて/居る――それもその筈である。太郎たちにせがまれるままに、分け与えて了った筈である。思わず涙/がじ……とにじむ。しまは紙ごとキャラメルを口に入れる――口一杯甘露のような甘さがしみ渡って/くる。唾液が、こえに誘れて、ずくずく湧き出、美味、美味……思わず舌鼓を打つ。これに味を覚え/た舌は、飢餓に服従しない……机の抽斗という抽斗、片端から引き掻きさがす。煙草は二本出て来た/が、遂に喰べるべきものは一つもない――絶望と疲れで、卓子に手を拡げたまま俯伏せになり、まど/ろむ。卓子の抽斗を散らけたことが気にかかる。身辺を美しく整理し、見る者をして感動せしめて死/にたい想いが心の一角で未だにわだかまって居る。


 しばらく眠って、目を覚ますと遠雷。段々近くなる。そしてこの日の最後、428頁14~17行めに至って、

‥‥、雷が書庫へ落ちればいい……/そうした心の反逆を不思議に冷静に眺め乍ら、運命に身を投げ出す。
 急に渋谷が懐しく、抽斗から捜し出した煙草を嚙む。煙草の香り――渋谷の唇の味が、つーんと舌/を刺す。

と、初めて渋谷のことを懐かしく思うのである。煙草の香りがそのよすがになると云うところに、時代を感じる。(以下続稿)