瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(104)

 『山怪実話大全』の第一刷から第三刷に掛けての時期、その編者の東雅夫が杉村顕(顕道)と「サンデー毎日」の関わりについて tweet していたことは、2018年8月8日付(027)にも触れましたが、8月8日付(095)に改めてその全文を引用して確認し、8月9日付(096)には第三刷の【追記】も確認して見ました。
 私は36年来の図書館マニアで目下、図書館から借りた本が100冊以上机辺に積み上がっていて、新たに本を買う経済的・空間的余裕もなく、複写を取っても直に反故の中に埋もれさせてしまうので、どんなに重要な資料でも必要が生じたときに借りて済ますことにしております。しかしながら上記『山怪実話大全』第三刷は、8月8日の昼に書店に行って買いました。『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』は、2011年にこの題の記事を書き始めた頃は近所の図書館の開架にあったのを専ら借りて使っていたのですが、久しぶりに再開してみると書架になく、OPAC で検索して見るに書庫に収められていることが分かりました。そうなると、もう要点は粗方メモして置いたつもりだし、わざわざ最近流行りの外部委託で素人みたいな館員に出納を頼むのも面倒で(何度、いっそ私を入れて下さい、と思ったことか)しばらく手にする機会もないまま過ごしておりました。
 それはともかく、昨年東氏の一連の tweet を読んだとき、杉村顕道と「サンデー毎日」の関わりについては東氏も、東氏に連絡した杉村氏の次女も、初めて話をしたような按配なので、私もうっかりそのつもりになってしまい、杉村氏の経歴を確認すべく(「蓮華温泉の怪話」の本文は『山怪実話大全』に拠っていますので)久しぶりに『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を借りたときも、次女・杉村翠の談話「父・顕道を語る」を2018年8月11日付(030)の如く、差当り問題となっている昭和3年(1928)頃まで、つまり1節め、437~439頁上段17行め「東京時代」だけを見て、済ませてしまったのです。その後、返却間際になって「父・顕道を語る」に続いて収録されている、紀田順一郎「杉村顕道の《発見》」に目を通したのですけれども、2018年9月9日付(050)に引用しましたが杉村氏の履歴書に「「サンデー毎日」に作品を発表したことがあること」とあるのを見付けて、何だか狐につままれたような気分にさせられたのです。
 ところが、今度、杉村顕が『信州百物語』編纂に当たって青木純二『山の傳説』を参照したことが、「晩秋の山の宿」と「蓮華温泉の怪話」の1例からでも明らかとなったと(私は)思うのですが、しかしながら1例だけでは検証としては弱いので、両者の関係をより明瞭にすべく、8月14日に久しぶりに『杉村顕道怪談全集 彩雨亭鬼談』を書庫から出してもらって借りました。もちろん国立国会図書館デジタルコレクションでも読めますが、どうも画面を読み続けるのが苦手なのです。それはともかく、そこで件の「父・顕道を語る」の続きにも目を通すと、3節め、440頁上段16行め~442頁下段「『信州百物語』の刊行」に続く、4節め、442頁下段~444頁下段14行め(但し443頁は、上段「『怪談十五夜』初版(右)と第3版。‥‥」の写真、下段「『信州百物語』初版(右)と第4版。‥‥」の写真。)「樺太から仙台へ」に、東海林太郎の歌謡曲の作詞(代作)をしたことに触れた次の段落(444頁上段4~9行め)に、

 この作詞も含めて、文筆家として立つ夢は樺太時/代も棄てていなかったんじゃないかと思います。タ/イトルは私もわからないのですが「サンデー毎日」/の懸賞小説に投稿して当選したり、樺太での見聞を/『新・樺太風土記』として樺太の出版社から刊行し/たりしていますからね。

と述べてあるのです。
 これは2018年11月28日付(68)に触れたように、「サンデー毎日」大衆文芸第19回(昭和11年/1936年度・下)佳作の杉村顕「先生と青春」で、まさに杉村氏の樺太時代に当たっております*1。出来れば複写を取って差し上げたいところですが、これは私がやらなくても良いことでしょう。それはともかく、こうなってみると、いよいよ東氏の『山怪実話大全』初刊直後の tweet に「杉村翠さんから」の「お電話」の内容を紹介して「しかも顕道は「サンデー毎日」にも投稿したことがあったのだそうな!」と、新事実の発見の感激とともに(と云って良かろうと思うのですが)述懐されているのが不思議で、しかし東氏ほど多忙を極めない(そんな言い方するのか?)私とて当ブログの古い記事をいろいろ忘れていますし、いえ、私のことを引き合いに出すのは不適当ですな、――やはり人間の記憶は当てにならない、分かっているつもりのことを忘れたり、何故か調べ落としていて、しかし大体調べ終えているような気分になっている、そして発見の喜びはしばしば勘違いに過ぎない、そんなことを思ってしまうのです。
 ですから、私は「赤マント」の検証でもそうですが、回想は(傍証がない限り)信用しません。そして、分かっているはずのことでも、度々見直す必要のあることを痛感します。その点で、私の、資料を所有せず、必要なときに借りて確認し直す、と云う貧乏臭い方法も、悪くはないと思ったりもするのです。(以下続稿)

*1:雑誌に掲載された頃には仙台に移っていたかも知れませんが「父・顕道を語る」では。仙台に移った時期を昭和11年(1936)としているだけなので、この辺りの詳しい関係までは明らかに出来ません。