・『信州百物語』の成立(4)
9月8日付(111)の続き。
9月6日付(109)に指摘したように、『信州の口碑と傳説』巻末「近刊豫告」の「内容紹介」と、本書の内容は相当な齟齬を見せる。
以下、推測になるが――『信州の口碑と傳説』刊行時には「内容紹介」にあるようなものを「第二弾」として準備する約束を、版元の荻原正巳としていたのであろう。その段階では、実は何の準備も出来ていなかったものと思われるのだけれども、「自分の好める怪奇的伝説、妖怪譚」を主としたものであれば『信州の口碑と傳説』よりは容易に書けるものと踏んでいたのであろう。そして今度は、素材をかなり自由に「流麗伸達の行筆」を以て潤色した、小説じみた力作を揃えるつもりであったのではないか。
ところが【初版】の「はしがき」から窺われるように、昭和8年度の1学期の途中で、樺太に転任することになってしまった。「夏の初」め、立夏を過ぎた頃とすると5月、かなり急な話で、昭和8年(1933)と云えば長野県教育界を揺るがした二・四事件(教員赤化事件)があった年だが、杉村氏が関係していたかどうかは分からない。とにかく殆ど執筆しないまま樺太に転居することになり、「近刊豫告」を出してしまったことでもあり、荻原氏には別れ際にも書き上げる約束をしたものの、内地とは相当異なる「新しい土地での生活」の中、新妻の体調も優れず、差当りあり合わせの資料で書いて行ったために、結局は「内容紹介」とは齟齬する、書き方も内容も『信州の口碑と傳説』と殆ど変わらない、いや、より簡単なものになってしまった、と云うのが真相だろう。
長野市での勤務が続いておれば、乙部泉三郎館長の長野県立図書館で、郡市町村史の類からそれらしい話を書き抜いて、潤色して一篇の読物として整えて行く、と云った作業が可能であったろう。
・小林一郎『門前町伝説案内 善光寺表参道歩きの基礎知識』平成十五年四月十日発行・定価一、〇〇〇円・龍鳳書房・一五七頁・四六判並製本)
- 作者: 小林一郎
- 出版社/メーカー: 竜鳳書房
- 発売日: 2003/05
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その資料が使えなくなってしまったので取り敢えず手持ちの資料、まづ『信州の口碑と傳説』の典拠として活用した2冊、藤澤衞彦編著、日本傳説叢書『信濃の卷』から28話、青木純二『山の傳説 日本アルプス篇』から12話、さらに『松代町史』下卷の「口碑傳説」から13話、残り1話は典拠を未だ突き止めていないが、合計54話にして、「百物語」と云うのは当初計画からして「三十数篇」だったのだから話数ではなく《怪談集》くらいの意味で使っているのだが、質的に充実させられなかった分を、話数を増やすことで埋め合わせたのであろう。
地域の配列が乱れていること(一方で41~53話めは埴科郡松代町附近に集中)と「怪奇伝説」を謳いながら、その枠に収まらない多彩(?)な内容が、『信州の口碑と傳説』とは違った、本書の味になっている*1のだけれども、それは意図したことではなく、偶然こうなったと見るべきなのであろう。しかし標題と内容の甚だしい不統一は、当時の杉村氏の状況、そして典拠の数とその利用法とを絡めると、かく解釈するのが穏当のように思うのである。
この推測が当たっているかどうか、ともかくとして、結論として本書『信州百物語』は(『信州の口碑と傳説』ともども)かなり安易な作られ方をした伝説集であると云わざるを得ない。しかしながら、――大正から戦前に掛けて刊行された相当数の伝説集のうち、実際に古老の聞き書きなどによって成立したものが何程あろうか。中には青木純二のように、伝説集にそれらしい話を創作、或いは日本アルプスや北海道に移入してしまうような人物もいた訳である。そこまでではなくともこのような、先行書から書き抜いただけの机上の産物としての伝説集は、現代に至るまで編纂され続けているのである。
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このような結論は、近年、本書を珍重している人たちからは歓迎されないかも知れない。しかし、私は歓迎されるためにやっているのではない。ただ、適正な評価を与えたいだけなのである。今は不愉快に思われる人がいるかも知れないが、我々がその情念諸共滅んだ後になっては、やはり早めに適正な評価に直して置いた方が良かった、と云うことになるはずなのである。
私が最初に学会発表をしたのは修士課程の2年のときだったが、その主題は、ある文化人が晩年に付けていた随筆のようなノートに、漢籍から抜き出された名言が並んでいて、それはその西洋志向だった人物が、晩年になって東洋に回帰して漢籍に沈潜したのだ、みたいな説明がなされていたのだけれども、私はその大量の漢籍からの名言がほぼ全て載っている本を見付けてしまったのである(笑)。そこでその文化人について調査して発表してかなり(!)好評だったのだけれども、その後で出席した懇親会で、少々酔っ払っていた某女子大の助教授に「××君、今度はあの文化人を評価して下さい」と絡まれたのである。それで、あの発表が私の文化人に対する評価なのだ、と思いながら、何でこんな不満を言われなきゃならんのかと教授の言うことを聞いているうちに、この人は「お前の発表は文化人をけなした。だから今度は褒めてくれ」と言っているらしいことに気付いたのである。私は過大評価されてきたのを適正に査定し直したと自負していたから、何故褒めないと「評価した」ことにならないのか、不思議でならないのだが、学界ではとにかく褒めることになっているらしいのである。しかし私は、不当な評価を放置するのは宜しくないと思っているので、目下取り組んでいることなど、2015年10月18日付「試行錯誤と訂正」に述べた「ネガティヴ・データ」に相当するものであろうが、きっちりと検証して置きたいのである。(以下続稿)
*1:いや、内容的には『信州の口碑と傳説』と全くと云って良いくらい違わないのだから、本書の標題と内容のズレが生み出す微妙な味、と云うべきものだ。