瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

須川池(5)

 私が編纂物としての伝説集を好ましく思えない理由は、異説をさらに積み重ねるだけでしかないからである。典拠が示してあれば、何に拠って書いたか、と云うストレス(?)は低減されるが、それならわざわざ書き替える必要はなかったのではないか、と思ってしまう。
・和田登 編著『信州の民話伝説集成【東信編】
 9月26日付「青木純二『山の傳説』(02)」に触れたように、『北信編』『中信編』『南信編』と合わせて、信濃国(長野県)の伝説を網羅している。

信州の民話伝説集成 (北信編)

信州の民話伝説集成 (北信編)

信州の民話伝説集成 (中信編)

信州の民話伝説集成 (中信編)

 現在『南信編』の書影は貼付出来ない。
 それはともかく、だから信州の伝説を通覧するには便利だけれども、やはり使いづらいのである。そのことを須川池の伝説を例に取って、余り良い例でないかも知れぬが、述べて見よう。
 15~177頁「上田地域」、44~83頁「上田市」19話中6番め、58~59頁に「国分寺の鐘*1」と、2字下げで大きく楷書体、ルビも楷書体で熟語には均等割付。本文は明朝体、58頁2~13行め、

 むかし、神川村に最初の国分寺があったころ、この寺の鐘を盗みだした盗賊が/おったそうな。盗賊は鐘を背負って、小牧山のあたりまでやってきたものの、あ/まりにも疲れたので、鐘をおろして一休みしていると、あれまあ、鐘がひとりで/に鳴りだした。*2
国分寺恋しや、ぼぼぼ、ぼうん……」*3
 と、いっている。
 盗賊がびっくりして、見ているうちに、今度は動き出して、かってにぼぼぼぼ/転がっていき、須川の池の中へ転げ落ちてしまった。*4
 こんなことがあってから、この池に落ちておぼれそうになった人は、
国分寺に行くんだ。助けてくれーっ」
 というと、むかし落ちた鐘が助けてくれるという。なんでも、いまでは鐘は龍/に変身しているんだそうな。*5


 大体、10月14日付(3)に見た日本傳説叢書『信濃の卷』以来の型を踏襲しているが、一致しない。434~438頁【参考資料・文献一覧】には日本傳説叢書『信濃の卷』は出ていないが9月26日付「青木純二『山の傳説』(02)」に指摘したように『信州の口碑と傳説』は載っている。しかし10月16日付(4)に見たように『信州の口碑と傳説』の「須川の池」には、鐘が龍などに化身したことは見えない。【参考資料・文献一覧】に多数挙がっている、別の文献に拠ったことになりそうだが、依拠した文献を各話に添記していないので、大正期以来多くの文献に採録されていそうなこの「須川池の沈鐘伝説」の場合、極端な話、採録していそうな文献を一々見て行かないといけない。いや、文献の採録数が少ない話であっても結局、きちんと検証しようとすれば同じ手間が掛かることになる。――9月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(125)」に取り上げた、丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る巻末の「参考文献・出典・初出・引用」は全部で28点、この程度であれば大体の見当が付けられるから、却って使い勝手が良いのである*6
 伝説集に載る伝説は、口承ではなく先行する伝説集から採られることが多く、同じような話が複数の伝説集に出ているので、正直、どの本に拠ったかは確かに示しにくい。しかし、いや、だからこそ、5頁にわたる文献一覧を示すのであれば、その中でどこまでその話が遡れるのか、示すべきなのではないだろうか。これだけ集めたのにそれをしないのは、如何にも勿体ない。――或いは、複数の文献を綜合して「伝説」の定本を作ろうとしたのかも知れない。しかしそれでは、2015年9月10日付「山本禾太郎『小笛事件』(3)」に述べた、A説とB説を折衷したC説みたいなもので、ある意味、それまで存在しなかった鵺みたいな説を拵えてしまうことになるやも知れぬのである。埋もれた伝承を新たに発掘する等ということも期待出来ない現代にあって、新たな伝説集を従来通りの手法で作成し続けるのは、単に伝説の異説異本を、大した根拠もなく執筆者の感覚で作り出すようなものである*7。そんなことは好い加減止しにして、もうそろそろ戦線拡大ではなく縮小整理、例えば伝説集単位での依拠関係など、伝説の系譜を確認するべき時期に来ているのではないだろうか。いや、疾うからそういう風にして置くべきだった、と私などは思っているのである。
 59頁は殆ど余白で、右側下寄りに明朝体で小さく、以下の註記がある。

信濃国分寺は、上田市八日堂にある。初めは現在の国分寺史跡公/ 園になっているところにあったが、後にいまのところに移った。/ 須川の池というのは、上田市南四キロメートルほどのところにあ/ り、どんな日照りのときでも、乾いたことがないといわれている。*8


 本文にある「神川村」は明治22年(1889)の町村制施行から昭和31年(1956)に上田市に併合されるまで村名で、神川村があった時分の文献ならともかく、神川村廃止から50年以上を経て(仮に地元で慣用で使用しているとしても)使用するべきではないだろう。それにこの話は「神川村」発足よりも余程昔のはずである。そして註に見える「八日堂」は信濃国分寺の縁日に基づく別称で地名ではないらしい。すなわち所在地は「上田市国分」とすべきである。また「南四キロメートル」も基準は市役所らしいが分かりにくい。距離ではなく位置関係で説明するべきではないだろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「こくぶんじ・かね」。

*2:ルビ「かんがわ・こくぶんじ・かね・とうぞく/こまき//」。

*3:ルビ「こい」。

*4:ルビ「/すがわ」。

*5:ルビ「りゅう/」。

*6:長野に行かないと閲覧困難と云う資料も使用されていない。しかし、追跡調査はやりやすいが、地元在住の丸山氏にはもう少し地元資料の掘り下げをお願いしたいように思ってしまう。

*7:資料としてもそのままでは使えない。厳密な検討をしようと云う場合、結局これら編纂物については、典拠を突き止めてそちらに依拠せざるを得ない。だからせめて、主として依拠した文献名くらいは添えて欲しいのである。

*8:ルビ「ひで」。