瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(291)

北杜夫の赤マント(6)
 さて、ようやく本題に戻ります。
 何故、10月26日付(288)に引いた『マンボウ最後の家族旅行』の赤マントに関する記述を「記憶違い」だと断言出来るのかと云うと、似たような記述が『南太平洋ひるね旅』にあるからです。
 時系列に纏めて見ましょう。
昭和36年(1961)12月~昭和37年1月、『南太平洋ひるね旅』の旅。
②昭和37年(1962)1~12月「楡家の人びと」第一部、雑誌「新潮」に連載。
③昭和37年(1962)6月『南太平洋ひるね旅』刊行。
④昭和38年(1963)9月~昭和39年3月、第二部「残された人々」、雑誌「新潮」に連載。
⑤昭和39年(1964)4月、第三部を書き下ろして『楡家の人びと』刊行。
⑥昭和51年(1976)4月、南太平洋再訪。
⑦平成22年(2010)3月、「マンボウ夢草紙」での回想(歿後『マンボウ最後の家族旅行』に収録)
 ①『南太平洋ひるね旅』の旅には、②『楡家の人びと』連載開始とほぼ同じ頃に出発しています。③『南太平洋ひるね旅』の刊行にしても赤マント流言に触れた、④『楡家の人びと』第二部連載より前のことなのです。ですから⑦『マンボウ最後の家族旅行』の「韓国人の医者の‥‥奥さんが「楡家」を読んでいて」と云う記憶が正しければ、これは⑥南太平洋再訪時のこととしか考えられません。
 それこそ、昭和40年代に南太平洋に長期出張、もしくは調査研究のため滞在していた日本人が、欧洲への留学生と同様に『楡家の人びと』を長く日本の文化・文学から切り離されて過ごす期間の伴侶として持って来ていて、現地で日本統治時代の朝鮮で教育を受けて日本語が出来る韓国人医師夫妻と親しくなり、帰国に際して重くてかさばることもあって記念に贈った、と云うことになりましょうか。そして夫人が読んで赤マントが自分が体験したのと同時期の東京でも流行っていたことを印象深く記憶していたところに、ひょっこり作者本人が現れた、と云うことになりそうです。
 しかし、実際にはそんなドラマチックな偶然の出会いなどではなくて、『楡家の人びと』連載・刊行よりも前の、①の体験を書いた③『南太平洋ひるね旅』に「韓国人の医者の‥‥奥さん」に赤マントについて聞かされる件があるのです。もちろん『楡家の人びと』のことなど出て来るはずもありません、赤マントは『楡家の人びと』とは全く関係のない、話の自然な流れで持ち出されているのです。その辺りの記憶が⑦晩年の北氏にはすっぽり抜け落ちてしまっていて、『楡家の人びと』の影響のように(執筆に際してか、それとももっと前からかは分かりませんが)記憶違いをして、『南太平洋ひるね旅』等を見返して確認することなく、書いてしまったのでしょう。(以下続稿)