瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(294)

北杜夫の赤マント(9)
 また赤マント流言の話に戻れなくなってしまいました(笑)が、乗り掛かった船ですので昨日予告した件について確認して置きます。――まぁ、こんな寄り道ばかりしているから検索サイトからも見放されてしまうのでしょう。或いは「釣り」と思われているのかも知れませんが、全然釣れていませんので題は「赤いマント」にしない方が良いのかも知れないと思うのですが、飽くまでも赤マント流言の確認の一環としてやっていることなので、このまま通しましょう。
 ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」の、インタビュー冒頭「ハワイやN・カレドニアで=移民の悲惨さを知る」に、「――本書執筆の動機は。」と問われて、まづ、

 私はまだ日本の一般の人が海外旅行に自由にいけないときに、一つは「マンボウ航海」、もう一つはポリネシアの島々の旅をしたんですね。そこでまず日本人移民が早かったハワイに渡りまして、そこには随分一世の方がいました。その方たちと話をしまして、その頃から移民のいわゆる「勝ち組」「負け組*1」などで、ブラジルには太平洋戦争後もまだ日本が勝ったと信じている人や逆に「認識派」がいるという話を聞いたんです。それは内地にも伝わっていまして、内地のジャーナリストはむしろそれをからかい気味に書いた。またハワイの日系社会も安定していましたから、そこでまだ冗談めかして聞かされたんです。
 タヒチに渡りましたら、タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人、中心都市のパペーテにいまして、ちょうど人類学者の畑中幸子さんという若い女性の大学院の学生が残っていまして、彼女から島にはまだ他にも移民がいるらしいと聞いて、レンタカーを借りてタヒチを一周したんです。ようやく一人を見つけたんですけど、まぁ目も悪いし、随分なんか気の毒に感じたもので、思わず「日本に帰りたくないですか」と聞いてしまったんです。そしたら「そういうことはなるたけ考えないようにしています。どうせ実現しないことですから」と言われて、こんな質問をしたことを後悔したんです。移民の方の悲惨な面をみたのはそれが初めてでしたね。
 それからニューカレドニアに渡りまして、あそこはニッケルの産地なんで、昔からかなり移民の方がいましてね。そこに日本船が週*2に一度やってくるんです。奥地にこんなにどんどん日本船がくるなら日本が勝った証拠だという老人がここにもいらっしゃったという話も聞きました。ただそれも冗談めかしてですけど。
 ただあのニューカレドニアで墓地を訪ねましたとき、外国人の墓は白くて花が飾ってあって華やかだったんですね。それでまた日本人墓地の一角がありまして、成功者の墓は一人ずつに戒名までつけられていましたが、ただ鬱そうたる樹木の下に、成功しなかった『日本人之墓』というずいぶん大きな石碑がありまして、裏にはぎっしりと名前が書いてあるんです。三、四十名の。それを見てやっぱり悲惨だなって思ったんです。それで将来、移民の話を書こうかなって気持ちを抱きました。だからずいぶん昔の話だったですね。昭和三十五、六年くらいの話ですか。

と、かなり詳しく『南太平洋ひるね旅』の旅が原点になっている旨を答えています。そのまま引いても藝がありませんから誤字衍字を修正しました。
 さて、私は『輝ける碧き空の下で』は読んでいませんが、『どくとるマンボウ回想記』等で「勝ち組」「負け組」については知っていましたから、本書を読んで南太平洋の移民でも同様で、これがブラジル移民への関心に繋がって行くのだろうとの感想を持ちましたが、この詳細なインタビューによって裏付けられた恰好です。
 全体の細かい対応関係は、本書について細かく確認する際に果たすことにしたいと思いますが、ここではタヒチについて回答を、本書『南太平洋ひるね旅』と対照させて置きましょう。
 しかし、昭和36年(1961)12月から昭和37年(1962)1月の『南太平洋ひるね旅』の45年後、北氏も80歳ですからやはり記憶はかなり怪しくなっているようで「二人、中心都市のパペーテにい」たのは「移民の子孫」ではなく「移民」一世です。1人は10月30日付(292)及び10月31日付(293)に見た「紺野老人」、もう1人は「清野さん」です。
 「清野さん」のことは、文庫版81頁1行め、全集177頁上段16行め「食事をするのにも次第に慣れてきた」つもりだった北氏が、文庫版82頁13~14行め、全集177頁下段15~16行め、前回と違って御飯抜きで小エビのカレーを食べさせられたことに憤慨(!)して「近くの博物館にいるH嬢を尋ね、「御飯つ|き」というフランス語/を教えてもらった。」という挿話に続けて、文庫版82頁15行め~83頁10行め、全集177頁下段17行め~178頁上段15行め、【11月19日追記11月14日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(03)」に挙げた①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版の位置を「\」で追加した。94頁1行め~95頁4行め。なお、章立てと頁については11月17日付「北杜夫『南太平洋ひるね旅』(06)」を参照。

 H嬢はその後中国人*3の下宿を出\て、清野さんというやは|りずっとタ\ヒチに居ついている日本人/の家に居\候*4になって|いる。清野さんは紺野さ\んと同じく、明治時代こちらに渡|っ\た人である。福/島の人で若い頃新聞\を見ていたら、フラ|ンス領タヒチの\移民募集の広告がでていた。フラン\スと/【82】い|うからにはきっとひらけた土\地だろうと思って応募し、明|【177】治四十\四年八月三十一日横浜を出帆、/(私\は今度の旅行で|こういう昔の移民の人にできるかぎり会った。みんなずい|ぶんのお年寄りで\/あるが、日本を出た日付だけは実にすら|すらと言う。よほど記憶に忘れがたくこびりついて\いる/の|であろう。*5)さてタヒチの首都パペーテに着いてみたら、電|気も自動車もなく、いやこ\れはつ/まらぬ所にきたと思った|そうだ。奥さんは現地人で、息子*6さんやお孫さんがいるが、\|清野さんの/血ははいっておらず、奥さんの連れ子である。|タヒチではこういう点が実にサッ\【94】パリしているの/だそう|だ。
 私はタヒチに着くまで、タヒチにいる日本人は紺野さん|一人だと思っていた。しかし、清\野さ/んはじめ五*7六人の|日本人がいるのである。清野さんはH嬢を孫みたいに思っ|て家にお\き、私まで/食事に呼んでくれた。はじめ行ったと|きは、‥‥

とあって、H嬢こと畑中幸子が世話になっていたこともあって、以後、清野さんの家族の話が幾つか紹介されております。文庫版82頁右上には「自宅の清野老人」の写真も掲載されております(全集は写真なし。紺野さんの写真は文庫版にもない)。
 この後、前回見たようにH嬢とタヒチ島一周ドライブに出掛けるのですが、2007年のインタビューにあるような、途中で(この2人を除いた)4~5人の1人を訪ねた、と云った記述は見当りません。本書には結局上記の2人しか、タヒチにいた日本人(もしくは日系人)は登場しないのです。――その不幸な状況に遠慮して、この人物については書かなかった可能性もあります。
 或いは、紺野さんや清野さんとは別に「中心都市のパペーテに」北氏の言う通り「タヒチの近郊の島での鉱山で働いた移民の子孫が二人」いたのかも知れません。「一世」の紺野老人・清野老人が来島当初、どんな仕事をしていたか、ずっとパペーテにいたのかどうか、記述されておりません。ですから、北氏の記憶に混乱があるとした場合、この2人が「鉱山で働いた移民」に当るのか、も、はっきり分かりません。いえ、それ以前に「近郊の島での鉱山」の話題は本書には出て来ません。そもそも、この2人を差し置いてわざわざ「子孫」を挙げる理由も分かりません。
 ですからこの、ドライブの途中で探し当てた不幸な人物のことは、「鉱山で働いた移民の子孫が二人」ともども、何処かで記憶違いしてしまった可能性が、拭えないと思うのです*8
 この辺り、10月27日付(289)に引いた「創作余話 (3)」にある、「手帳のほかに小型大学ノート一冊半」の「メモ」を見ることが出来れば、はっきりさせられると思うのですけれども。(以下続稿)

*1:原文、ここに「み」とあるのを削除。

*2:原文「州」となっていたの訂正。

*3:11月19日追記】①初版(ポケット・ライブラリ)と②新装版は「シナ人」。

*4:文庫版ルビ「いそうろう」。

*5:全集は句点なし。

*6:文庫版ルビ「む す こ」。

*7:全集はここに読点「、」あり。

*8:2021年3月18日追記】細かい記憶違いが多々指摘出来るものの、タヒチで『南太平洋ひるね旅』には書かなかった、不幸な境遇にある移民に会ったことは確かなようで、その後度々語ったり書いたりしています。当ブログで取り上げ次第、ここに追加して行くこととしましょう。まづ、2021年3月17日付「奥野健男『北杜夫の文学世界』(6)」。