瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

能美金之助『江戸ッ子百話』(7)

 一昨日からの続きで、鶴見俊輔不定形の思想』所収「小さな雑誌」一九六一年八月条について、本書『上』と対照させながら、内容を確認して置こう。
 次いで、253頁下段6~11行め、

 この実話をよむと、ふだん電車の窓から見ていておぼえ/ている景色に、おくゆきができてくる。たとえば、上野か/ら神田にむかう電車にのると、黒焼の広告が、古めかしい/大きな書体でいくつか出ているが、なぜ黒焼を昔から人が/のんできたのか、なぜ上野近くにその店があるのか、よく/わからなかった。

と前置きして、以下のような原文を抜いている。12~22行め*1

松葉町の半僧坊権現の寺の前に黒焼屋があった。元浅草/公園付近には売春婦が沢山居て梅毒の伝播がしどかった。*2/未だ其当時は六百六号其他の梅毒新薬も出来たか出来ぬ時/代であったから此の黒焼屋で(獣類其他の黒焼作品)梅毒治療/の黒焼を売った。元より全治薬として今日より思えば妙な/薬であったでしょう。其の梅毒の薬屋の隣りに傘、下駄を/売る下駄屋が出来た。其れで下駄屋と梅毒の薬屋のあいだ/に下駄屋が大きな袖看板を出した。これが中々振って居る。/『かさにげた』(傘に下駄)これでは隣りの梅毒の薬屋の広/告しているようで、私は青年時代此の看板見る度び可笑し/かった。」(第二十二話、「松葉町物語」)【253】


 本書では『上』75~76頁「第二十二話 松葉町物語」の最後、76頁14~20行めに、

 終りにちょっとおもしろいことを書こうと思う(このことは先日も書いたように思うが、松葉町のできごとだから書く)松葉町の、半僧坊権現の寺の前に黒焼き屋があった。浅草公園付近には売春婦がた/くさんいて、梅毒*3の伝播がひどかった。当時は六〇六号その他の梅毒新薬もできたかできぬかの時代/であったから、この黒焼き屋で梅毒治療の黒焼(獣類その他の黒焼作品)を売った。その梅毒の薬/屋の隣に傘や下駄を/売る店ができた。そして下駄屋と薬屋のあいだ大きな袖看板を出した。これが/なかなかふるっている。「傘に下駄」(カサニゲタ)、これでは隣の薬屋の広告をしているようで、こ/の看板を見るたび、おかしかった。*4【76】                     

とあって、書籍版刊行に際して表記を現代風に改めた他にも、細かく手を入れていることが察せられる。かつ、袖看板の文字が「かさにげた」なのか「傘に下駄」なのかが気になるところである。――普通、書籍版が訂正したと判断するところであろうが、記憶に頼っての記述は必ずしも後のものが正しいとは限らない。
 そこで「先日も書いた」との記述を手懸りに『上』を遡って見ると、広告(主として看板)について回想した24~27頁「第六話 門跡跡の大ガマグチ」がそれであると分かった。26頁12~18行め、

 世の中には思いも寄らぬ偶然のことがある。巧まずに自然にしたことが、人の目を見張らせること/がある。商店の広告看板だが、なかなか振るった滑稽が出来た。
 所は浅草松葉町(今の松ヶ谷町)。問題の看板は下駄屋「かさにげた」(袖看板)である。ところが、/下駄屋の隣へ、当時瘡*5(梅毒)の薬専門店の有田ドラックの支店が出来て、盛んに売り出した。袖看/板を境に隣同士そうなると、下駄屋の「かさにげた」の看板が隣の薬屋の瘡逃げたの広告になってし/まった。自然のおかしさは、こんなことから出来るのかと、筆者は青年の時(六十年前)、その前を通/っては一人で笑っていた。


 こちらは「かさにげた」である。――それはともかく、これは末尾(27頁6行め)に「昭和31年7月」とあるから「六十年前」では明治29年(1896)で能美氏はまだ11歳である。とても「かさにげた」を「一人で笑」う年齢とは思われない。「有田ドラッグ」と云うのが正しければ大正の震災前のことではないか。――しかし、この第六話では下駄屋が先にあって、後から有田ドラッグが出店しているのに対し、第二十二話では元からあった黒焼屋の隣に下駄屋が出来たことになっている。双方とも尤もらしい。しかし、いづれどちらかが記憶違いであることに違いない。そして、回想を資料として扱う場合の難しさを、私に思わせるのである。(以下続稿)

*1:「梅毒」に一々ルビ「か さ 」。

*2:「しど」の脇に「(ママ) 」。

*3:ルビ「カ サ 」。

*4:この行、下詰めでやや小さく「昭和33年2月 」。

*5:ルビ「かさ」。