瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

奥野健男『北杜夫の文学世界』(6)

 昨日に続いて、奥野健男北杜夫の文学世界』から当ブログの記事の参考になりそうな箇所を見て置きましょう。
 2020年11月1日付「赤いマント(294)」に、ブラジルの日本語日刊新聞「ニッケイ新聞」のサイト「ニッケイ新聞WEB」の2007年6月27日付「作家・北杜夫さんと独占インタビュー=ブラジル日本移民を書いた長編小説『輝ける碧き空の下で』=2回訪伯=日系人と心温まる交流=訪伯時のエピソードきく」の、インタビュー冒頭「ハワイやN・カレドニアで=移民の悲惨さを知る」の一部を引いて、『南太平洋ひるね旅』に登場しない人物について語っている内容について、細かい記憶違いが指摘されることを捉えて、少し疑わしい目で眺めていたのですが、その後、H嬢こと畑中幸子『南太平洋の環礁にて』と岩佐嘉親『南太平洋の楽園』を見て、今はやはり「不幸な状況に遠慮して、この人物については書かなかった」のだ、と云う考えになっております。実はその人の見当も付いているのですが、その後、北氏が「ニッケイ新聞」のインタビュー以前にもこの人物について度々語っていることに気付いたので、それらを整理してから記事にしよう、と思って、そのままになっておりました。
 本当は、畑中氏や岩佐氏の本に、その他の資料も挙げてこの点について、当ブログなりに明らかにしてしまうのが筋なのですが『北杜夫の文学世界』について纏めて書いているついでに、先にこちらを済ませてしまいましょう。
 すなわち、3月11日付「奥野健男『北杜夫の文学世界』(1)」に引いた「文庫版へのあとがき」にあったように、②文庫版で増補された172~184頁「「輝ける碧き空の下で」」の、奥野氏と北氏の対談に、この人のことが持ち出されているのです。
 この対談は3月12日付「奥野健男『北杜夫の文学世界』(2)」にて確認した「掲載書誌紙一覧」にある通り、新潮社のPR誌「波」昭和57年1月号に「日本人移民の夢と挫折」と題して掲載されたものです。
 冒頭部分(176~177頁下段11行め)を抜いて置きましょう。

奥野 北さんは、随分前からこの「輝ける碧き空/の下で」の構想を立てていたそうですね。
 ブラジル移民の資料を集め始めたのは、『白/きたおやかな峰』を出版した後だから、もう十五/年ぐらい前になります。「酔いどれ船」を書いて/いた頃は、既に南米物を書こうと思っていました。/僕が外国における日本人を書くのは、国内にいる/時よりも外国に行った時のほうが、より日本人ら/しい行動や性格が表われると思うからです。それ/で、今までにも「酔いどれ船」やいくつかの短篇/で、異国に舞台をとりました。
奥野 北さんの文学的系譜から見て、なぜ移民に/執着するのかと、僕は不思議に思っていました。/「酔いどれ船」を読んだ頃からの疑問なんです。/僕は一九二六年生れで北さんは二七年生れ、同世/代のわけです。僕らの子供の頃は、ブラジルとい/うと日本人がいっぱい行っている国だという印象/があった。昭和十年に第一課の芥川賞をとった石/川達三の「蒼氓」が、ブラジル移民のことを書い/ていますね。移民は貧乏で行くけれど、割にブラ/【176上】ジルでは成功していると思っていたんです。北さ/んは、その頃からブラジル移民に興味を持ってい/たんですか。
 いえ、殆んど知識がなかった。「酔いどれ船」/を書いていて外国における日本人の行動を調べよ/うと思い、移民関係の本を買い込んでいるうちに、/興味を持ち始めたんです。僕が初めて移民を知っ/たのは、昭和三十六年に南太平洋を旅していて、/タヒチで明治時代の移民何人かに会った時です。
奥野 「南太平洋ひるね旅」の時ですね。
 そうです。タヒチのそばの島で鉱石を掘って/いて帰りそびれた人達が残っていると聞いて、探/してようやく尋ね当てました。その時、うっかり/「日本に帰りたくないですか」と聞いたら、「そう/いうことは考えないことにしています。どうせ実/現しないことですから」と言われた。なにしろ、/もう目も弱っている六十歳以上の人達ですから。/その旅の最後に、ニューカレドニアへ行きました/が、ここにも明治時代の移民がいた。一世には会/えなかったけれど、二世の人に日本語教育を受け/【176】るために日本に行く船の中で畳にすわる練習をさ/せられた話なんかを聞きました。
奥野 しびれがきれちゃったろうね。(笑)
 まだ一世の人がいて、太平洋戦争後の「勝ち/組」「負け組」もいるんですって。
奥野 ブラジルだけじゃないの?
 ニューカレドニアは、ニッケル鉱の産地なの/で、戦後、日本の船がどんどん来る。こんなに来/るからには戦争に勝ったに違いないと言って、山/奥でいまだに『大東亜共栄圏』なんて本を読んで/いる人がいるそうです。そんなことがあって、古/い移民の苦労を漠然と感じたわけです。
奥野 ブラジル移民は?
 ブラジル移民に初めて接したのは、昭和三十/六年に第一回のパリ留学から帰ってくる辻邦生を/横浜の埠頭に迎えに行った時です。早く着いたの/で波止場をぶらついていたら、ブラジル移民船が/停泊していた。出港までかなりの時間があったの/か、あたりはひっそりとしていました。その舷側/に、幼い子供連れの一家が立っていて、その子供/【177上】がじつにションボリとした顔をしていた。
奥野 それはタヒチの後?
 後です。その移民を見た時、なぜか胸をうた/れて……。その頃はまだ、小説を書こうと思って/いなかったけれど、前に言ったように「酔いどれ/船」の時に、資料を買い込んでいるうちにブラジ/ル関係の本が随分、集まってきた。初めは南米全/体の移民史を企てていたんです。でも本を読んで/いったら、とてもじゃないけれど生きているうち/に書ききれない。しようがないからブラジルに絞/りました。


 「初めて移民を知ったの」が「タヒチ」と云うことになっていますが、「ニッケイ新聞」のインタビューでも語っているように最初の訪問地ハワイで会っているはずで、2020年10月30日付「赤いマント(292)」にも見たように、ハワイではタヒチから移ってきたマダム・キニーなる「正真正銘の日本人」にも会っているのです。
 ニューカレドニアについては再度『南太平洋ひるね旅』に当たって点検することとしましょう。しかし「旅の最後」に訪れたのは独立したばかりの「西サモア」で、ここで岩佐嘉親に会い、Korean の医師ドクター・ハンの夫人から、赤マント青マントの話を聞くのです。
 それから、ブラジル移民船を見たのが「タヒチの後」と云うことになっていますが、辻邦生の帰国時と云うのが正しければ「前」のはずです。辻氏が横浜港に戻って来たのは昭和36年(1961)3月3日、そして北氏が『南太平洋ひるね旅』の旅へ羽田を飛び立ったのは2020年10月27日付「赤いマント(289)」に見たように、同年12月5日です。

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 そう云えば、本書の〝しゃべり下し〟対談では、青山脳病科病院の焼失についても間違っています。ついでに病院の説明ごと抜いて置きましょう。①単行本128頁②文庫版135頁上段~下段14行め、初め1行分空けて、

奥野 「楡家」の病院は、ほんとうはなんていっ/たの? 青山脳病院?
 正確に言うと、青山脳病科病院なんです。脳/病院というといかにも気違いを扱う病院みたいな/んで、脳病科としてやわらげたところが祖父の得/意なところなんですよ。
奥野 松沢病院より古かったの。
 いや、松沢のほうが古い。ただ、私立として/は、一番古いほうでないかな。
奥野 帝国脳病院というのは?
 その前身。ほんとうに帝国脳病院と称してい/た。はじめは内科の患者も扱ったから、看板には、/片側に帝国脳病院と書かれて、片側に青山病院と/なっていた時代がある。そのうち、精神科の患者/がほとんどになったから、青山脳病科病院とした/んですよ。
奥野 あの最初に出版されたときの「楡家の人び/と」のしおりに写真の載っていたすごいゴシック/の建物は、あれはいつまであったんですか。【上】
 関東大震災の前の年に失火でもって焼けちゃ/ったんです。
奥野 あれとおなじものは再建できなかったわけ/ね。
 うん。
奥野 じゃあ、北さんの生れる前だな。
 ぼくは見たことない。ただ「楡家」に書いた/以上に、見かけだけは豪壮な病院だったらしい。/母にきくと、廊下にはタイルが一面に敷きつめて/あって、ゼラニウムの植木鉢がずらり並んでいた/そうだ。だから、精神病院という陰惨な印象は全/然なくて、むしろ派手で豪華な、いまでいえば特/別病室にいるような気分を患者に与えたらしい。/それが祖父の事業家たるところなんでしょうね。

とあるのですが、青山脳病院が焼けたのは大正13年(1924)12月29日、震災の翌年です。「蔵書目録」ブログ2017年02月14日「「青山脳病院」 年賀状・絵葉書 (1907.12)」に、全盛期の絵葉書に添えて「写真通信」第百卅貮号/大正拾四年貮月号(大正十四年二月一日発行)及び「歴史写真」第百三十九号/大正十四年二月号(大正十四年二月一日発行)の記事が写真とともに紹介されており、参考になります。
 それはともかく、当人の発言であっても、思い込みによる記憶違いが少なからず発生するわけで、事実を確定させるためには傍証となる資料を探索すると共に、当人の発言や記述が別にないか、やはり早い時期のものほど誤りが少ないので、そういうものを拾い集めていく努力が欠かせないのです。(以下続稿)