瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(21)

・和田登『民話の森・童話の王国 信州ゆかりの作家と作品』(3)
 昨日、和田氏が白馬岳の雪女について「物語としても一級である」と評していることに疑問を差し挟んだのであるが、「白馬は民話で名高い「雪女」の里です」と云う案内板が設置されるくらい、地元の伝承扱いが定着してしまっているのである。8月9日付(13)に触れた浅川欽一のように見識を示して、無視することも出来たであろうが、捨てるに忍びなかったのであろう。スルーした場合、連載している「信濃毎日新聞」の読者から何故触れないのか、と苦情が来たかも知れない*1。しかし、そう云った反応を気にして取り上げたのではなく、『富山の伝説』に同工の「雪女」を取り上げた大島廣志のように、別の話(十六人谷)との類似にも注目して敢えて残した、と云うのでもなく、やはり「物語としても一級」と思っているので、取り上げてコメントして置きたかったようにも、思われるのである。
 では、和田氏が民話の取り扱いに無頓着であったのかと云うと、そんなことはないので、「第1部 民話編」の最後、「民話編のためのエピローグ」に、次のような記述がある。118頁2~14行め、

 現代において民話について語るとき、もっとも戸惑*2うのは、たとえば「つつじの乙女」ならどの本に収め/られているそれがもっとも原形に近いのか、といったことについてである。活字文化は、確かに私たちに/至福*3をもたらしたけれど、民話に関していえば多くの混乱におとしいれた。活字、文字に置き換える作業の/なかで、文章でよく表現したいがための文学的粉飾*4が行われるようになった。
 そこには自ずと、再話者の文学的表現上の願いが重ねられていく。まだ活字が普及しておらず、純粋な/口承*5文芸であったその間は、口から口への伝承であったがために、肉体の一部で語られるその素朴な温もり/が、そのままに伝えられた。が、一度ペンと活字を手中にしてしまった大衆は、ときとして民話を自由自在/に紙の上でいじることのできる神の立場になった。
 そこから、民俗学的研究をしたりする者にとっては、不都合が生じるようになってしまった。もっとも何/が元の姿であったかを、推理作家のように推理したり、探検家のようにそれを訪ね歩く楽しみもなきにしも/あらずだが、基本的には無原則の民話の改変には賛成できない。
 そうした意味からすると、『信濃の昔話』(日本放送出版協会の箱山貴太郎氏を中心とする編者たちの業績や、/浅川欽一氏採録*6の同名書物(スタジオ・ゆにーく)などにおけるその仕事ぶりには敬服せざるを得ない。


 浅川氏の『信濃の昔話』は、中学1年生のときに県立図書館で借りて、カセットテープを聴いた記憶がある。いや、聞いた内容までは覚えていないのだが、カセットテープ付きであることが印象に残っているのである。箱山氏の『信濃の昔話』も見ただろうと思うのだけれども、記憶に残っていない。

 それはともかく「民話の改変」の「不都合」を指摘している和田氏が、白馬岳の雪女について「物語としても一級である」と評して済ませていることは、少々納得が行かない。それから、2019年10月17日付「須川池(5)」に見た和田登 編著『信州の民話伝説集成【東信編】が【参考資料・文献一覧】に多くを挙げながら、何に拠ったかが分らない(そして、どうも最も古い文献(≒原形)にも従っていないらしい)ことも、何とかして欲しかった。(以下続稿)

*1:私も、当然取り上げられるはず、と思っていたことが取り上げられなくてガッカリした覚えが何度もある。苦情を出したことはないけれども。

*2:ルビ「と ま ど」。

*3:ルビ「し ふ く」。

*4:ルビ「ふんしょく」。

*5:ルビ「こうしょう」。

*6:ルビ「さいろく」。