瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

白馬岳の雪女(067)

 9月11日付(044)の続き。
・遠田勝『〈転生〉する物語』(28)「二」1節め①
 47頁7行め、3行取り2字下げでやや大きく「二 ハーンと「民話」の世界」とある。ここから68頁までが「二」章である。
 しかし、実は「二」章なのか不安があって、――「一」章の最後の段落、47頁2行めに8月22日付(26)に引いたように「本章の冒頭」とあって、だから「一」章「二」章と数えているのだけれども、その先を見て行くと「四」章4節め「母性の神話と父性の神話」の98頁4~5行めに「次節/でくわしく扱う」とあるのだが、そのような記述があるのは5節め「悲しみの正体」ではなく「五」章2節め「非白馬岳系の伝承」なのである。そうするとこの「次節」は「五」節と云うことになる。つまり、章なのか節なのか、遠田氏本人が統一していないのである。校正も引っ掛けるべきだったと思う。いや、校正は字句だけでなく内容でも怪しいところ、分かりにくいところ、矛盾するように感じられるところまで、とことん切り込んで欲しい。ここは単純に字句の問題だから、尚更である。
 「二」章は松谷みよ子の再話について検討した章である。――47頁8行め~48頁10行め、導入として昭和31年(1956)に『信濃の民話』取材の旅に出た松谷みよ子の回想を引き、これが出世作の『龍の子太郎』に繋がり、その後の松谷氏の活躍ぶり、『ちいさいモモちゃん』や『松谷みよ子全集』そして雑誌「民話の手帖」を主宰したことなどに触れてから1節め、48頁11行め~51頁1行め「松谷みよ子と民話「雪女」」で、松谷氏と信濃、民話、そして「白馬岳の雪女」との関わりについて述べ始める。
 しかし、この辺りのことを松谷氏の著述とも絡めて検討すると、そっちに手間取って松谷みよ子論みたいになってしまいそうなので『信濃の民話』と「白馬岳の雪女」に絞って進めよう。松谷氏の民話観や、再話についての私見2020年3月28日付「飯盒池(8)」に述べたことがあるので。
 49頁12行め~50頁13行め、

信濃の民話』は、木下順二の民話劇『夕鶴』とともに、一九五〇年代から七〇年代まで、ほぼ/三十年にわたる「民話の時代」を先導した歴史的な書物である。その編集は、左翼演劇青年でもあ/った瀬川の好みで「信濃の民話編集委員会」という、妙にモダンな集団名義になっているが、実質/的には、瀬川拓男・松谷みよ子夫妻の共著共編で、これをベストセラーにひきあげた原動力は、時/代の大きな流れとは別に、松谷みよ子個人の、それまでの口碑伝説の出版物にはなかった、知的で/あると同時にすぐれて大衆的な、明るい語り口にあったと思われる。そしてこの『信濃の民話』の/【49】なかに、「白馬岳の雪女伝説」は、安曇野の伝承として、四度目の、しかももっとも完成された姿/での登場を果たすのである。しかし、ほとんどの人が見逃していたのだが、そのみごとな民話「雪/女」の末尾には、小さな活字で短い二行の注記が記されていた。
 
  採集 村沢武夫
  再話 松谷みよ子
 
 松谷の「雪女」は、村沢の「雪女郎の正体」の再話だったのである。
 一般向けの民話集としては、こんなメモでも出典注記があるだけましなのだが、それにしても、/もう少し親切な書き方はできなかったものだろうか。多くのハーン研究者同様、わたしも、この/「村沢」を「信濃の民話編集委員会」の一人と思いこみ、松谷の「雪女」が、信濃山麓で語りつ/がれた口承伝説を「採集」したものだとばかり思い込んできた。結局、これで青木から松谷まで、/白馬岳の雪女伝説で、フィールドで採話されたものはひとつもなく、文献だけで一直線につながっ/てしまったのである。
 こういうことだったのかと、調べたわたし自身が、呆然としている。


 ここら辺りもやはり、8月19日付(23)に見たような、「ハーン研究者の多く」とか「多くのハーン研究者」とかが「わたしも」含めてこの問題に関して皆同じような認識をしていて、しかしその「ほとんどの人」よりも一足先に「わたし自身」は進み得たかのような書き方になっていて、最近の所謂「マウント」めいた按配になっている。いや、それだけでなく、ここにも牧野陽子が批判したような「演出」が、為されているように思われるのである。(以下続稿)