濤江介が江戸に戻って、両国橋で偶然、尚武堂新兵衛に再会したのは、いつだったろうか。
濤江介が新選組の壬生の屯所に身を寄せたのは文久三年(1863)六月、することがなくて退屈の余り、隊服を着て町中を出歩き、新選組隊士になりすまして豪商を強請っている浪人を追い払い、いい気になって謝礼をもらうなどしたことが問題となって、石清水八幡宮の麓の、近藤勇の顔馴染の刀鍛治・横井仙斎に預けられたのは七月、と云う見当になるかと思う。そして八月には「浮洲」銘の短刀などを作っていたが、十一月までに仙斎の一人娘・小萩と駆け落ちしてしまう。
小萩とは既に初対面のときから意識し合っているような按配だったから、それこそ九月には関係を結んで十月には駆け落ちしていたのかも知れない。そうすると、十一月に沖田が仙斎を訪ねて濤江介の駆け落ちを知った頃にはもう江戸に着いていて、十二月辺りに尚武堂に会っていたと云う見当になろうか。
88頁17行め~89頁4行め、
濤江介は小比企に住んだ。そして偽刀作りに専念した。助広、兼定、長船、どこからどう都合/して来るのか、尚武堂はそれらの真物を依頼する時には必ず持って来た。一応、それで素人眼を/ごまかせるものを作ることは濤江介には容易であった。――当然、金回りは良くなって、土地を/【88】買い、家も新築した。
トンテンカン、トンテンカン、槌の音が威勢よく小比企の野良にひびいた。いつかの仇討の若/者が此所を知って斬込んで来はしないか――という危惧は常に有ったが、その時はその時のこと/だといった考えが裕福になった彼を大胆にしていた。
年内に小比企に落ち着いたとして、本格的に偽刀作りを始めたのは翌文久四年=元治元年(1864)になってからであろう。そして元治元年に第一子、慶應元年(1865)から三年までの間にさらに2人、そして慶應四年(1868)の夏にはもう1人生れている。結局何人出来たのかは書かれていないので分らない。
本作の結末は、濤江介の斬首だけれども、村上孝介『刀工下原鍛冶』には年号を挙げていなかったが、名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』に拠ると村上氏は12月12日付(04)に引いたように「明治になってからも」と言っており、森氏もこの見解を踏襲して「明治になってからも」偽刀作りに励んでいることにしている。
明治になっていることは91頁18行め~92頁2行め、
翌明治二年五月、箱館の五稜郭にたてこもっていた榎本武揚を主領とする幕軍が降伏し、維新/の戦争はようやく終りを告げた。土方歳三もこの戦いで死んだ。沖田も、もうおそらくは生きて/はいまい……。
濤江介は彼等への哀惜を強いて振り切るように刀を打ちつづけた。
とあって明らかだが、実は、1行分空けて92頁3行めから始まる濤江介の最期を語る場面には、時期が明示されていないのである。
秋風を冷たく肌に感ずる頃、突然、数名の捕手が濤江介の仕事場に乱入した。
その中に武蔵太郎がいて、9~15行め、
太郎は手にした刀を抜いて濤江介の眼前につきつけた。大五目乱れの刃紋に沸えの荒い豪快な/太刀である。
「繁慶*1と銘には在る。しかし、これを作ったのはお主に相違ない」
武蔵太郎の顔が怒りに充血している。
「知らんな」
「知らんとは言わせんぞ。この銘は如何に巧みに似せてはいてもお前のものだ。それが分からぬ/武蔵太郎と思うか」
と、刀鍛治らしく濤江介の偽刀作りを証明する役目を負って登場する。
尚武堂に頼まれて最初は「五郎正宗」、そして小比企に来てからは「助広、兼定、長船」の偽刀を作っていた。そしてここに「繁慶」が登場するが、これは11月12日付「大和田刑場跡(14)」に引いた村上孝介『刀工下原鍛冶』に載せる「正近が繁慶の刀の偽物を作って打ち首になった」との「目撃」談に従ったのである。
捕手にはもう1人「いつかの仇討の若者」も混ざっていた。93頁1~5行め、
「親の仇とさがしさがしてようやく在所は分かったが、仇討禁止令でそれは果たせない。が、偽/物作りは掟に背くそうだ」
「お前のような刀鍛治を生かしておいては、武州の恥、後世にまで恥をさらすことになる。濤江/介、観念しろ」
捕方の頭立った者が言った。
所謂「敵討禁止令」は明治6年(1873)2月7日の太政官布告だから、明治6年以降の晩秋と云うことになる。――これも、大金を手に入れてから1年近く何もしていなかったのと同様、恐ろしくもたもたしている印象が否めないが、とにかく「さがしさがしてようやく」見付けたものの「敵討禁止令」のため踏み込めない。そこで事情を知っている武蔵太郎安定に相談、武蔵太郎はこの際、下原鍛冶の面汚しである濤江介を粛清すべく、八王子の治安維持を担当する面々とも協議した上で、偽刀作りを理由に捕縛・断罪してしまうことに決し、踏み込んだと云うことになりそうだ。
しかしこの展開ではどうも、前回の最後に確認したように、濤江介はわざわざ捕まりに八王子在に戻って来たような按配である。もう少し何とかならなかっただろうか。
それはともかく、明治6年とすると文政十二年(1829)生の本作の濤江介は四十五歳、小萩と男女の関係になって丁度10年、小萩は文久三年に十九歳だったとすると弘化二年(1845)生、二十九歳である。医学所で沖田総司に再会したとき、85頁12行め「よく子を生む女でね」と語っていたが、このとき、93頁13行め「小萩の手に抱かれた赤ん坊」に、14行め、小萩「の左右にも幼い子がとりすがって」とあって、明治に入ってから更に3人くらい増えていそうである。
但し、明治6年(以降)かどうかは、実は分らない。私は最初読んだとき、明治二年かと思ったのである。それは、引っ立てられるときの遣取りが、93頁18行め~94頁10行め、
濤江介は背筋を延ばして立ち、捕方を眺め回した。
「ひとつおたずねしたい。あんた方は官軍か」【93】
「いや、八王子千人同心だ」
「何だ。官軍ではないのか。同じ武州の人間が、なぜ俺を――」
「馬鹿言え。官軍などに見つからぬうちに貴様のような恥さらしは抹殺してしまうのだ」
「なるほど」
濤江介はにやり、と特徴のある分厚い唇をゆがめて笑った。
「臆病者、俺がいることで自分達が官軍におびやかされるとでも思っていやがるのか。これは飛/んだとばっちりだ」
「黙れっ」
一人が濤江介の頰を力まかせになぐった。ヨロヨロとしながら濤江介は続けた。
「刀は斬れればいいんだ。銘が何だというのだ」
となっているからで、「官軍」と云う呼称からして、戊辰戦争が終わって何年も経ってからとは思えなかったのである。
しかし、そもそも八王子千人同心は慶應四年(1868)六月に解散しているので、明治になってからは捕方を務めていないはずである。或いは、明治四年(1871)十一月に第一次府県統合により多摩郡が神奈川県多摩郡となるくらいまでは、元八王子千人同心で、八王子に残留した面々が警察権を行使するようなこともあったのだろうか。幕末明治に疎い私にはまだ調べが付いていないのだが、森氏も、森氏に濤江介正近について情報提供した村上氏も、どうもはっきり分かっていなかったようである。
そして、当時、森氏(及び村上氏)は承知していなかったから仕方がないが、今となって見るとやはり、実在の酒井濤江介正近と武蔵太郎安貞の年齢との齟齬が気になってしまう。11月13日付「大和田刑場跡(15)」に見た後藤安孝「武州下原刀の研究(十九)――武蔵太郎安貞――」に拠ると、濤江介正近と太刀を共作した実在の武蔵太郎安貞は慶應四年(1868)四月二十三日に死んでいる。但し「安貞」ではなく「安定」と変えてあるから、本作の「武蔵太郎」は生きていたって構わないだろう。しかし、本作の濤江介が「二十歳」のとき既に「中年」だったのだから10歳は年上で、仮に四十歳とするとそれから25年経っているのだから六十五歳である。そうすると捕手の中に1人老人が混ざっていることになるのだが、そう云った描写をしていない。いや、そんなことを云ったら濤江介正近の斬首は、後藤氏に拠ると明治三年(1870)二月十四日のことで、しかも、実在の濤江介正近はそのとき七十二歳だった勘定になるのである。(以下続稿)
*1:ルビ「はんけい」。