瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(15)

 昨日で書きたいところは書き終えてしまったので、もう止めにしたいところなのだが、ここまで来たら最後まで見て置こう。
 1行分空けて94頁13~15行め、

 水無瀬*1河原と呼ばれている河原に濤江介は連行された。多摩川の支流、南浅川の上流で、どう/いうものかこの辺りだけは川水が地下に潜って流れている。まるで地獄図の賽の河原を思わせる/一面の石河原であった。


 ここは11月12日付「大和田刑場跡(14)」に引いた村上孝介『刀工下原鍛冶』に拠っている。名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』では村上氏は「多摩川原に引き出されて、首を着られました」と言ったことになっているが、本作では正しく南浅川としている。
 但し「南浅川の上流」ではなく、明治から戦前までの地形図を見るに、北浅川と分岐する辺りから 1km程、南浅川は水のない河原となっており、その途中に水無瀬橋が架かる。水無瀬橋は2022年11月3日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(3)」に見た『ふるさと八王子』153頁上段13行め~下段1行めに、

 明治二十二年に木橋が架設され、その時に/「水無瀬橋」と名付けられた。幾度かの出水/で流出した後、昭和八年にコンクリート橋に/【上】かけ替えられ、現在に至っている。‥‥

とあるように明治初年にはなかった。152頁下段1~2行めに、

 陣馬街道を日吉町から横川町へ向かうと、水無瀬橋がかかっている。‥‥

とその位置を説明するのだが、陣馬街道は「案下道」とも云い、追分(八王子市追分町)で甲州街道から分岐し、下恩方・上恩方を北浅川を遡りつつ横断して和田峠に到り相州に抜ける道である。下原は下恩方村のうちであるから、水無瀬河原は下原から八王子宿への通り道に当たっているのである。従って、下原の武蔵太郎安定の許での食客生活中、濤江介は何度となくこの水無瀬河原を通ったはずである。しかしながら森氏の書き振りには、どうもその辺りの意識がないように見える。
 ここで濤江介は、自分の作った「偽繁慶」の「大刀」もしくは「太刀」で斬首される。95頁15行め~96頁2行め、

 夕焼けが富士山を紫色に浮き出させ、横雲が幾筋も紅色から金色へ色をかえながらたなびいて/いる。
 ――いよいよ俺も最後か――小萩や子供達の顔が脳裡をよぎった。
 ――一体、俺の一生は何だったのだ。近藤や沖田達の一生は明治新政府下でたとえ逆賊という/汚名を着せられようと、あの誠実を貫いた生き方は後世に必ず語り残されるであろう。だが、俺/【95】は何をしたのだ。偽刀作りの濤江介、浮洲造之。そういう刀を笑い物として遺したに過ぎないの/ではないか――


 そして最後は96頁4行め「おじちゃん。なに作ってるの」と云う、本作の最初の台詞(48頁6行め)である「おじちゃん、なに作ってるの」なる宗次郎すなわち幼少期の沖田総司の発言が幻聴として聞こえて、振り向こうとしたところを首を落とされる。
 すなわち、宗次郎との出会いで刀鍛治を目指した若者が、やがて偽刀作りに手を染めて処刑されるとき、再び宗次郎の声を聞くと云う構成になっているのである。宗次郎との出会いにより刀鍛治を志したが「なに」を「作ってるの」かを見失ったまま最期を迎える、と云う――。
 しかし、実在の濤江介は沖田総司が生れる前に修業を終え、小比企に移り住んでいたのだから、本作の濤江介は作家が不明瞭な点を想像で補うと云う段階を越えた、自由な創作と云うべきものになっている。但し何度か繰り返し注意したが、森氏及び森氏に情報提供した村上氏が濤江介の年齢を突き止めていなかったため、このような設定になったので、それは仕方がない。いや、仕方がないとは云うものの、当ブログで幾つか指摘したように、強引に結び付けたり、逆にもたつかせたりと云った欠点は目立つように思う。
 結論として、――他に取り上げる人のいない人物に照明を当てた、興味深い作品ではあるけれども、あまり出来が良い作品とは云いかねるものとなっている。(以下続稿)

*1:ルビ「み な せ 」。