瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(15)

 取っ組み合いの喧嘩などもう40年くらいしていないと思うが、私は大抵相手の後ろに回り込んで両腕ごと胴を絞めて身動き出来なくした上で、膝で尻を蹴ると云う戦法で、尻をドンコドンコ蹴りながら、飽くまでも言葉で相手の非を認めさせた上で降参させていた。腕力がないと云うこともあるけれども、道理もへったくれもなしに単純に力で圧倒して勝つなどと云う野蛮な決着は好みではないのである。だから当ブログでも言葉を尽くしている。
 だから格闘技、特に流血するような競技は好きではない。刀剣も、苦手である。別に刃物が怖いとか云うことはないが、興味はない。よって以下に述べることはまさに付焼刃である。
 さて、昨日前半を見た村上孝介『刀工下原鍛冶』の「66. 正近,正親」項の後半、258頁14行め~259頁2行めは「正近の正真作」と見られるものを2つ紹介している。2つめが村下要助『生きている八王子地方の歴史』も触れている高尾山薬王院に奉納された武蔵太郎安貞との合作である。
 この武蔵太郎安貞のことは『刀工下原鍛冶』234頁21行め~238頁16行め「30. 安     貞」にも記述されているが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索するに、次の雑誌の次の記事が一番詳しいようだ。
・後藤安孝「武州下原刀の研究(十九)――武蔵太郎安貞――」「刀剣と歴史」第六三六号(平成十二年七月二〇日印刷・平成十二年七月二〇日発行・頒価一、〇〇〇円・日本刀剣保存会・50頁)29~36頁
 後藤氏は近年に於ける下原鍛冶研究・下原刀蒐集の第一人者で「刀剣と歴史」第六一七号(平成九年五月)から第六四七号(平成十四年五月)まで30回にわたって「武州下原刀の研究」を連載していた。武蔵太郎安貞は、山本姓の「下原十家」のうち武蔵太郎安國の弟子で井出姓、この論稿では五代にわたる武蔵太郎安貞について概観し、その作を挙げるが、資料の不足もあってそれほどはっきり分かっている訳ではない。その理由は35~36頁中段3行め「五、四代安貞」の節の冒頭部に述べてある。35頁上段2行め~中段2行め、

 井出家の菩提寺である金南寺*1では、明治初年の/火災により、過去帳等が焼失して、安貞の初、二、/三代の法名、卒年等不明であるが、この四代目か/らは判明している。
 四代目安貞は、慶応四年(一八六八)四月二十/三日没で、法名は「玄門得道信士」位である。享/年は不明であるが、五代目安貞が七十一歳で亡く/なっているので、もし七十歳を享年と仮定すれば、/出生は寛政十年(一七九八)となる。
 四代安貞は、地元の鍛冶である酒井濤江介正近/【35上】との合作刀を、安政二年(一八五五)地元の高尾/山に奉納している。つぎのその押形を掲げる。


 どうも校正が甘いこと*2が気になる。それから『八王子事典』改訂版308頁17~22行め「金南寺 こんなんじ」項に拠ると20~21行め「‥‥.1889年(明治22)10月火災によ/り焼失,1936年(1936)に仮本堂を再建,‥‥」とのことだから「明治初年」ではなく「明治中期」とすべきである。この火災は「金南寺のホームページ」の「歴史」に拠ると「政友会一派の焼討ち」とのことである。
 この合作刀の形状についての説明は割愛して、下段11行め~36頁中段3行め

 この奉献については嘉永七寅申初冬(安政元年、/【35】一八五四)の「高尾山奉剣名尊帳」があり、近隣/在郷の人々の助力があったことを記している。つ/ぎに願文の一部を記す。「天神は人の為に憑て威を/増し人は神の護を受けて志を遂ぐ 仰高尾山飯縄/大権現の神広大にして諸国の人々登山群集する霊/場たることはあまねく人々の知るところなり こ/こに剣匠酒井正近深く其道に志し是を故水心子正/秀の後嗣細川正義により学ぶ 即て 天保末より/此辺に寓し彼神を尊信し刀剣鍛煉の工夫に寝食の/間も意を離さざることまさに年有余 齢五十有六/に其の妙を寛とす」等とあり。近郷の名士八人の/名が記されている。願主は「酒井濤江介正近 武/蔵太郎安貞」である。願文の内容等から見ても、/正近が主で安貞は従の関係とわかる。
 この正近は、明治三年(一八七〇)二月一四日/【36上】に竹ノ鼻処刑場(八王子市新町)において、「偽作」/のかどで、斬首刑になったとされている。四代目/安貞も恐い思いをしていたのではないだろうか。


 ここに登場する人名を「名刀幻想辞典」にて検索し、村下氏と村上氏、そして後藤氏の記述と合わせて見た。
 村下氏は「水心師正秀の弟子」としていたが、水心子正秀(1750~1825.九.二十七)の孫弟子で、村上氏の引く『新刀銘集録』では「酒井浪江正親」が初代細川正義(1758~1814)の弟子となっているのだが、この「酒井濤江介正近」は後述する生年からして初代の長男・二代細川正義(1786~1858)の弟子と見るべきであろう。そうするとやはり「正親」と「正近」は別人と云うことになるがどうだろう。
 願文の年記、嘉永七年=安政元年(1854)の干支は「寅申」ではなく「甲寅」である。他にも少々疑問箇所*3があるが他にこの資料を活用した人はいないらしいので、差当り後藤氏の紹介により検討して見よう。師承関係の他に特に注目すべきは「齢五十有六」とあることで、これにより酒井正近が寛政十一年(1799)生であることが分る。そして明治三年(1870)二月十四日に竹ノ鼻処刑場で斬首されたとする。
 そうすると、村下氏は「伴幸といえど正近と組んだとみられ、かなり厳しいお調べを受けたようだと他人は見ている」と書いていて、この「他人」が誰だか分らないが村下氏の云う小比企村の名主磯沼伴幸(1797~1864)の生歿年が正しければ、磯沼家に残っていると云う「このときの始末などの文書」は磯沼伴幸ではなくその息子の磯沼伊織が作成したものになるはずである。しかし後藤氏は「四代目安貞も恐い思いをしていた」と想像するのだが、四代目安貞は慶応四年(1868)四月二十三日歿なのだから全く無用の想像である。
 それから、少々奇妙だと思うのは四代目安貞の生年の推定法である。次代の前半を抜いて見よう。36頁中段4~10行め

 六、五代安貞
 五代安貞の没年は大正十二年(一九二三)十二/月七日で、俗名茂三郎で享年七十一歳である。法/名は「鏡知玄空信士」位である。逆算すると出生/は嘉永五年(一八五二)となる。明治三年の正近/の事件の時は十八歳である。明治九年(一八七六)/の廃刀令は二十四歳になる。‥‥


 大正12年(1923)12月7日歿で「享年七十一」であれば嘉永六年(1853)生である。明治三年(1870)と明治九年(1876)の年齢(数え)は合っている。
 さて、後藤氏は四代目安貞の生年を「寛政十年(一七九八)」と推定していた。これは「五代目安貞が七十一歳で亡くなっているので、もし七十歳を享年と仮定すれば」と云う理屈なのであるが、それにしても、奇妙である。
 四代目の場合、親兄弟を生年・歿年・年齢を推定の材料に使えないとしても、息子の歿年・歿年齢が判明しているのだから、その生年から逆算して見当を付けるのが普通であろう。ところが何故か後藤氏は父親が息子と同じくらい寿命を保ったと仮定して生年を割り出している。しかしそれでは、五代目は四代目が50代半ばにして為した子供と云うことになってしまう。ありえないことではないがありそうな筋を引くべき推定の常道に反している。(以下続稿)

*1:ルビ「こ ん な ん じ」。

*2:「つぎの」は「つぎに」。

*3:「仰」は「抑(そもそも)」であろう。