瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

在阪ラジオ局の思ひ出(2)

・「おはようパーソナリティ道上洋三です」
 1月2日付(1)の最後、テレビを殆ど見なかったのに放送に毎日接していた、と云うのはもちろんラジオによってである。
 私にはラジオを聞く習慣もなかったのだけれども、母が家事をしながらラジオを聞くので、朝夕にラジオ番組を聞いていた。
 私の高校時代、朝食はバラバラだった。大阪に出勤する父はもう家を出ており、次に私だが高校まで徒歩15分くらいだったので、7時半に起きて8時過ぎに家を出ていた(はずである)。母は当時8時15分からだった朝の連続テレビ小説を見ていたはずだが、もちろん私はそれより前に家を出ていた。今の放映時間なら見てから家を出て間に合っただろうか。そして兄は2年間は大阪の予備校に通いながら浪人、1年は京都まで通学していたので、顔を合わせる機会がなかった。浪人の2年間は私よりも後に起きて、母からも兄に障るようなことをしないように言われていたので、部屋が別々になって以来、余り話す機会もなかったのがいよいよ疎遠になって、一つ屋根の下、いや、隣の部屋に起居していたのに、会った記憶がまるでない程になってしまった。兄が大学生になってからの生活がどうだったのかも、全く記憶にない。私より早く起きたのか、それとも遅かったのか、――父が転勤になって私らが東京に転居したとき、兄は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、飲食店でアルバイトして賄いで夕食を済ませていると聞いたが、直接兄と話すこともなかったので詳細は承知していないのである。
 それはともかく、私の高校には食堂があったけれども、母は中学のときと同じく弁当を拵えてくれた。朝食はいつも冷やご飯に緑茶を掛けたお茶漬けと、キャベツの千切りと醤油味の卵焼きに決まっていた。朝、それらの仕度をしながらABC朝日放送の「おはようパーソナリティ道上洋三です」を聞いていたのである。
 土曜だけ、母の負担軽減のつもりだったのか、昼食代をもらって食堂でカレーライスを食べていた。カレーライスと饂飩くらいしかメニューになかったと思う。週に1度しか利用しなかったから、これも殆ど記憶に残っていない。
 さて、私の母は阪神タイガースのファンなのだけれども、2016年2月25日付「井上章一『京都ぎらい』(1)」に匂わせた「ある事情」と云うのが、実は「おはようパーソナリティ道上洋三です」なのである。それまでは2016年5月28日付「昭和50年代前半の記憶(5)」に述べたように野球自体に、大して興味があるように見えなかった。大阪出身なので在阪球団を何となく応援するような按配で、巨人は好きではなかったようだが父が熱さはないものの巨人ファンだったので、それに対して逆らう訳でもなく、まぁ、夫や子供の好きにさせていた。そう云えば兄も野球に興味がないらしく、何処のファンなのか聞いたこともない。
 この番組は今でも続いているそうだが、私は高校卒業以来聞いていない。番組名の通り、道上洋三(1942.7/1943.3.10生)がパーソナリティを務めていて、女性のアシスタントがいたことは覚えているが、今、Wikipedia を見るに私の高校時代に5代目アシスタント(1986.10.6~1989.3)の川田恵子*1(1958.8.29~2013.11.16)から、6代目アシスタント(1989.4.3~1992.3)の秀平真由美(1964.2.9生)に交代している。確かに交代があって、道上氏が新しいアシスタントに番組の決まりを少しずつ説明して行く場面があったような、微かな記憶がある。
 さて、母は毎朝聞くこの番組で、道上氏が阪神タイガースが勝利した翌日に歌うことにしていた「六甲おろし」を度々聞かされるうち、歌が良い、と云う理由から阪神ファンになり、終いには夫を随行させて甲子園に出掛けるほどのファンになってしまったのである。番組では途中から連勝しないと歌わない、と云うことにルール変更して、なかなか歌えなくなってしまったことがあったように記憶しているのだが、これはどうも確かめようがないようだ。
 私は野球如きで人と争いたくないと云う消極的な理由でヤクルトファンだったのだが、平成4年(1992)シーズンは2016年5月28日付「昭和50年代前半の記憶(5)」に述べたように、うかうかと応援してしまったのだが、シーズン終盤、阪神が首位だったのを直接対決等でヤクルトが破って、最終盤で逆転優勝してしまったので、母とは本当に気まずくなったものだった。その翌年、ヤクルトが日本一になった後になって私はファンになった理由を思い出し、それ以降はさほど野球に熱くなることもなく過ごしている。しかし母は相変わらず、年に一度、神宮球場横浜スタジアムに観戦に行き(東京ドームには行きたくないらしい)、関西に出掛けることがあれば阪神グッズを必ず1つ買って帰っており、中年以降の後半生を阪神ファンとして全うしそうである。(以下続稿)

*1:道上氏が「おけいさん」と呼んでいたのは記憶にある。

英語の思ひ出(1)

 昨日の続きとして書き始めたのだが、在阪ラジオ局とは全く関係のない文章となったので改題した。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 1度めの兵庫県への転居の折――小学3年生の私は、静岡弁をさんざん馬鹿にされた。変な言葉を話す奴だと云うのである。しかし、私からしたら、彼等の方が可笑しな言葉で喋っているので、清水の旧友たちが皆喋っている私の母語*1を馬鹿にされる謂れこそなかった。だから随分反撥したものだけれども、それこそ多勢に無勢、無駄な抵抗と云う奴で、何とか3年掛かって漸く関西弁をモノに出来たかと思った頃、また父が転勤になって横浜市に転居することになり、全ての努力は水泡に帰したのであった。
 それがまた、私の中学卒業を待って既に父が単身赴任していた兵庫県に転居することになったのである。兵庫県と言っても地域が違ったのだが、まぁ同じ関西弁と云うことで、私は今度こそ、関西弁は習得済みだからストレスなく溶け込めると思ったのだが、結局、偽関西弁を話す変な奴にしかならなかった。
 自分では周囲に合わせて喋っているつもりなのに、可笑しがられる。――ここで私は、自分が自分で思っている以上に不器用であることを思い知らされた。そして、この不器用さは今でも年ごとに深刻さを増しているのだけれども。
 さて、この2度めの兵庫県への転居の前、私はK大学を入試問題漏洩で馘首されたH先生と云う上品な紳士のお宅に英語を習いに行っていた。
 私の英語が壊滅的な成績であることに悩まされていた両親が、学区一の進学校に進んだ兄が評判を聞き付けて来たH先生のところに、私を通わせることにしたのである。
 H先生は当初、余りの出来の悪さに呆れ返っていたが、英文法のテキストと問題集を先生の指示に従ってこなして行くうちにスラスラと読めるようになり、高校入試では多分満点を取ったと思う。しかし兵庫県に転居してH先生と縁が切れてしまった私は、忽ちの内に英語の成績を急降下させてしまったのだけれども。――もし転居せずに、H先生のところに通い続いておれば、と思わなくも、ない。
 H先生は白髪で長身痩躯、お洒落で、面長で歌舞伎役者のように目鼻立ちがくっきりとして、坂の途中の古い洋館にゆったりと住まっていた。初め、K大学を何故辞めたのか分からなかったが、後に父の書棚にあった『山藤章二のブラックアングル』の元ネタ(新聞記事切り抜き)によって、馘首されていたことを知った*2。それより後は、口コミで集まってきた学生相手に英語を教えて過ごしていたらしい。
 授業は書斎で、便所を借りたことくらいはあったと思うのだけれども、便所も玄関も覚えていない。家族がいたのかも記憶していない。授業は複式でやったこともあるような気がするが、前の人がまだ続けていたり、後の人の時間に食い込んだりしただけだったかも知れない。そんな折に他の生徒と顔を合わせたのだけれども、真面目そうな(多分兄と同じ高校の)女生徒や女子中学生とかであったから、話すこともなかった。学生は書斎の年季の入った応接セットに座って、応接テーブルにテキストやノート、英和辞典を広げて、まづ課されていた宿題を読み上げて点検してもらう。先生は離れたところにある椅子にゆったりと掛けて誤りを正し、次の課に進んで要点を説明して練習問題に取り組ませる。先生が応接セットの方にやって来ることはなかったように記憶する。先生の専門は今検索するに英語ではなかったのだが、しかし中学の英文法など赤子の手を捻るようなものだったのだろう。文法の理解を目的としてやるのだから、問題は辞書を引きながらやる。時間の制限もないが、別に粘っても仕方がないからさっさと片付けて確認してもらう。解答を言うと理解の不十分な点が正される。確かそんな按配で1日に30分だったか1時間だったか覚えていないが、1回に1課か2課のペースだったように思う。そしてその日の課業を了えると宿題が課される。それを1週間後にまた見てもらうのである。
 辞去すると既に暗い。急な坂を下って、始発の駅前から1つ先のバス停で市バスに乗る。途中、狭隘な駅前商店街を通るので女性の車掌が乗務している。いつも余り混んでいなかった。薄暗い蛍光灯の照明で、窓外も暗い。ちょっと田舎じみていて何となく物哀しく、これに乗るのも楽しみの1つであった。1度だけ、同級生と乗り合わせたことがある。後ろの席で、小声で私の渾名を呼ぶ声がするので振り向くと、陸上部の女子がいた。
 さて、落ちるはずがなかったのだけれども、とにかく兵庫の県立高校に無事合格してその報告旁々伺うと、学区の事情を御存知ないH先生は私の成果報告に満足げな様子で「初めは余りに出来ないのでどうしようかと思いましたよ」との感想(!)を述べ、そして普段は特に雑談などもないのに、最後に「××君。関西で標準語が話せるとモテますよ」と言われたのである。しかしながら、私は試さなかった(笑)。試しても多分モテなかったろう。そして、若きH先生ならば、さぞかしモテたことだろう、と、当時は思いもしなかったが、今にして思うのである。(以下続稿)

*1:満4歳の夏から満9歳になる直前まで過ごしたので、静岡弁が一応「母語」と云うことになるのだろうが、今や全く喋れない。

*2:兵庫県に転居してからだったと思う。