瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介「尾生の信」(5)

 さて、7月6日付(3)に見た近事畫報社の支那奇談集 第二編の「尾生の信」で上げ汐で溺れ死んだことになっていることが、私にはどうにも腑に落ちない。
 原文は、これから色々見るつもりだけれども、いづれ馮夢龍『情史』程度の短いものである。だから上げ汐にしたのは支那奇談集 第二編の「解釈」であろう。これを芥川は活用したのである。
 しかし、普通はこうは解釈しないであろう。しかし私が見識を示して(?)主張しても、別に上げ汐の解釈で構わないと思っている人には、駄々を捏ねていると思われるのが落ちであろう。そこで、支那奇談集 第二編とは別の解釈を述べている先人に御登場願おう。
・林道春『春鑑抄』(1)
 林羅山(1583~1657)による一般向けの著作(抄物/仮名抄)の1つで、儒教五常について口語体で解説したもの。
・日本思想大系28『藤原惺窩 林羅山1975年9月25日 第1刷 発行©・定価2600円・岩波書店・五二〇頁・A5判上製本

 113~二三四頁、石田一良 校注「林羅山」に収録されている。115頁(頁付なし)に簡単な「春鑑抄」の解題がある。一一七~一四九頁に本文と注釈、三五九~四〇八頁「補注」の三七一~三七五頁上段が「春 鑑 抄」である。
 115頁10~13行め、

‥‥。底本/は、東北大学付属図書館狩野文庫*1襲蔵の「寛永己巳(六年、一六二九)仲夏(五月)吉旦梓行」の奥書のある版本/(袖珍本、題箋を失っている)で、巻頭の汚損部分は同じ寛永六年版の東京都立中央図書館加賀文庫*2蔵本に/よって補った。‥‥

とあり、他に慶安元年(1648)版について4行め「‥‥「慶安元年大呂(十二月)吉旦」/の刊記をもつ内閣文庫蔵本には羅山著と記されている。‥‥」と触れている。
 最近は、国立国会図書館デジタルコレクション以外にも、古典籍のカラー画像がインターネット公開になっている。
 国文学研究資料館の「新日本古典籍総合データベース」にて、「寛永八年〈辛/未〉中秋吉旦梓行」の刊記のある奈良女子大学学術情報センター蔵本を閲覧出来るが、刊記の前に「春鑑抄終   道春書」の奥書が既にある。
 早稲田大学図書館雲英文庫*3蔵本は「春鑑抄終   道春書」の奥書に続いて2行の枠に「正保乙酉仲夏中旬/ 杦田勘兵衛尉刊行」の刊記がある。正保二年(1645)版である。
 どちらも横長の袖珍本で寛永六年(1629)版と同版、或いは覆刻であろう。内容は、一丁表「〇五常」、本文は半丁12行。三丁表5行め「〇仁*4」、二十丁表6行め「〇義*5」、二十七丁裏2行め「〇禮*6」、四十六丁裏7行め「〇智」、五十二丁裏5行め「〇信*7」、本文は「五十八終」丁表7行めまで、1行分空けて奥書、さらに1行分空けて刊記。
 尾生の話は、もちろん「〇信」に見えている。(以下続稿)

*1:狩野亨吉(1865~1942)旧蔵書。

*2:加賀豊三郎(1872~1944)旧蔵書。

*3:雲英末雄(1940~2008)旧蔵書。

*4:振仮名「ジン」。

*5:振仮名「ギ」。

*6:振仮名「レイ」

*7:振仮名「シン」

芥川龍之介「尾生の信」(4)

 さて、ロマンチックでない私は、来ない人を待ち続けたような経験も、あったようななかったような、なかったと書くつもりが、よく考えて見るとあったのだけれども、それよりも、私が行かなかったことの方が多かったのである。
 事情は様々である。しかし、携帯端末のない時代、外出している人と連絡を取るのは、難しかった。待ち合わせ場所に時間通りに来なかった相手が、何で来ていないのか、分からない。勤務先が分かれば電話することも出来るが、学生の場合、学校に電話する訳にも行かない。いや、掛けて見たら、大学なら案外対応してくれたかも知れないが、まづしばらく待って、駅の改札なら、黒板にチョークで「何時何分まで待ちました。先に行きます。」とか「今日は帰ります。」と書いて、移動することになる。そういう伝言板が大抵の駅にあった。使ったこともあるけれども、どういう状況で使うことになったのだか、はっきり憶えていない。
 待たせている方が駅に電話を入れて、駅員に「何々市からお越しの何々様、‥‥」と呼び出してもらって、伝言するようなこともあった。しかしそういう構内放送も、久しく耳にしていないようである。私は2015年6月8日付「大島弓子『グーグーだって猫である』(3)」に書いたように、駅員のアルバイトをしていた、辞めた大学サークルの同期の奴から悪戯でこれをされたことがある。いや、‥‥悪戯と書いたけれども、確かに構内放送を使って呼び出されなければ有人改札に出頭しなかったのだから、確実な方法ではあったのだ。そしてもう30年になろうとしている。
 店での待合せなら、店に連絡を入れれば良いのだけれども、金のない私は店で待合せたことがない。まぁ人と出掛けること自体が少なかったのだけれども。
 それはともかく、――駅の改札でなければもう仕方がないので、何故来なかったのか、不審に思いながら、自宅に電話を入れたりして、不在と言われるともうお手上げである。そして、川の増水するような中、すなわち雨の降る中、来ない人を待った尾生、と云うことで私が思い出すのは、36年前の秋のことである。
 と云って、ロマンチックな話ではない。2016年2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」に書いたように、当時中学生だった私は、横浜市南部の自宅から主として南の方、三浦半島の付け根の辺りを中心に土曜の午後と日曜と、自転車で走り回っていて、それは2018年11月12日付「美術の思ひ出(1)」に述べたように、庚申塔の調査をしていたのである。
 その初めの頃、昭和60年(1985)だったろう。私は自転車で戸塚区の南部(現・栄区)を廻っていて、笠間町の歩道もない狭い2車線の道路の、西側の岡の、切通しの崖みたいになっているところに延宝八年(1680)を始めとする数基の庚申塔があるのを見付けたのである。今、Google ストリートビューで2020年12月の写真を見るに、かなりの交通量があったように記憶する道路には車が殆ど走っておらず、小さいながらも崖のようになっていたはずが、工事が行われて綺麗に削り取られてしまい、庚申塔は車道と同じ高さに並べてある。しかし恐らく元の位置にそのままに保存されているのは何よりである。現在の栄区笠間2丁目28番26号の南、私が訪れた当時は住居表示未実施で戸塚区笠間町だった。背後の岡は笠間中央公園(笠間2丁目26番)になっているが当時は平坦な頂部が畑になっていて、急な斜面に木々が生い茂った、横浜市に多い、何もない小山だった。
 それはともかく、――恐らく帰り掛けの夕方に庚申塔を見付けた私は、自転車を止めて銘文などをノートに記録し、地図に現在位置と共に最古の塔の年記を西暦に換算して「1680」と書き入れている*1と、眼鏡を掛けた70歳くらいの老人に声を掛けられたのである。現代の70歳ではない、本当にお爺さんである。石仏を調べているのだと答えると、その老人は郷土史に造詣が深いらしく、今度、笠間の町内を案内してやろうと言う。中学3年生の私だったら、断った、と云うか、そもそも声を掛けられなかったろうが、初心で純真だった中2の私は有難くお願いして、1週間後、翌週の日曜の午前に、ここで落ち合って、と約束したのである。
 ところが、その日は雨だった。さて、どうしたものか、と思った。雨が降ったらどうするか、決めていなかった。大船まで電車で行っても良いのだが、自転車だから広範囲を金を掛けずに回れたので、往復電車に乗ると運賃で月の小遣いの何割かになってしまう。もとより電話番号も聞いていなければ、お互いに名前も知らないのである。
 母には話してあったから、相談すると、向こうもお前が自転車で来ていることは知っているので、雨の日に自転車では来られないことも分かるだろう。だから、行かなくて良いのではないか、と言うので、普段の雨の週末同様、出掛けないことにしたのである。
 その後、鎌倉方面に出掛けての帰りなどに笠間を通るごとに、例の老人に出逢わないか、気を付けていたのだが、結局その機会はなかった。一体何処に連れて行って、どんな話をするつもりだったのだろうか。そして、私の心の何処かに、雨の中、しばらくでもあの庚申塔の下で傘を差して私を待っている老人の姿が、引っ掛かって消えないのである。(以下続稿)

*1:だから私は年号と西暦の換算が非常に得意である。江戸時代以降は完璧である。だから、西暦を註記しない本を見ると落ち着かないし、そういう著者が往々換算を間違っているのを見ると「さてこそ」と思ってしまうのである。